
──あの頃の不便は、案外、自由だったかもしれない。
スマホを家に忘れた日、私は“誰か”じゃなくなった気がした。
駅で道に迷っても、調べられない。
待ち合わせ相手と連絡も取れない。
電車の中で、無意識にポケットを探る。
──でもない、なのに不思議と、ちょっとだけ空がよく見えた。
電車の中で、前に立つおばさんのピアスがやけに可愛く見えた。
子どもの頃、友達に電話をするのは“家の固定電話”だった。「◯◯ちゃんいますか?」って、親と話すあの緊張感。
でも、それが関係を育てる時間だったような気もする。
地図は頭の中に描いたし、待ち合わせは「◯時に△△でね」が基本だった。
“繋がってない”不安と同じくらい、
“繋がりすぎない”自由があった。
今は、LINEの既読、SNSのいいね、通知の数….
どこにいても誰かに見られている気がして、
ひとりになってるつもりでも、完全な“オフ”にはなれていない。
カフェで一人、静かに本を読むと、なんとなく「何か病んでる人」みたいに見られてる気がして。
その“気のせい”が、だんだん本当になってく。
たまに思う。
「ネットがなかった時代に、戻れるか?」答えはたぶん、戻れない。
でも。
スマホの電源を“ちょっと切る”くらいなら、
まだ、できる気がしている。
エピローグ
誰にも見られてない時間の価値。ネットのない時代には戻れないけど、
ネットに追われない時間を、自分でつくることはできる。
誰とも繋がらない夜に、湯船の中でただぼーっとする贅沢とか。
LINEの返信をわざと1時間遅らせる“反抗”とか。
そんな小さな反抗が、今の時代には、
案外、いちばん ”健康的な革命” かもしれない……..