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PERSOna Essayist Special『朝食を食べない自由』MAY 10.2025-Nit.Saturday

朝、目覚める。

けれど、空腹ではない。
それでも「朝だから」と口に何かを運ぶ。

その行為が、いつからか“習慣”として埋め込まれた。だが、そろそろ考え直してもいいのではないかと思うのだ。

本当に、朝食は「必要」なのか──と。



人類の歴史を遡れば、私たちは空腹のまま活動を始めていた。

狩りに出る。
水を汲む。
子どもを背負って山を歩く。


その行為には、満腹では成し得ない軽やかさがあり、朝とは、本来“始まりの身体”が目を覚ます時間。

食べることよりも、
動き出すことが自然だったのだ。



では、なぜ私たちは「朝食が必要」だと信じ込むようになったのか?

答えは、静かに語られる歴史の中にある。19世紀、宗教的思想に基づき「禁欲のための朝食」が作られた。

ケロッグ兄弟が作ったシリアルは、のちに莫大なマーケティングによって 「健康的な朝の選択肢」として普及した。

さらに20世紀、ベーコン業界が仕掛けた「しっかり食べる=ベーコン&エッグ」という幻想。

これらは、身体の声ではなく産業の声だった。



甘い朝食も同様だ。

イタリアのバールに並ぶカプチーノとコルネット。

華やかで、豊かな文化に見えるその習慣も、実は 菓子業界と製糖企業の“育てた朝”だった。

そしてその甘さが、依存の朝を生み出した。

気づけば、私たちは「空腹を感じる前に」「時計と広告に従って」食べている。

それは、本当に“食べたい”という声だったのか?



私は、食べない朝を選ぶ。

空腹を感じるまで、体に任せてみる。
すると、ふと頭が冴える。
胃のあたりに、静けさが戻る。

身体という器が「満たす前に整える」時間を欲していたのだと分かる。



朝食を否定したいわけではない。

ただ、選択肢として“食べない自由”があってもいいと思うのだ。

何も食べずに歩き出せる朝。

それは、社会が押しつけてきた帳をそっと閉じ、 自分だけのリズムで始まる、ささやかな革命である。



朝食という「最初の帳」を焼いたとき、 私たちは初めて、自分の身体の声に耳を傾ける。

そしてまた、食べたいと感じたときに食べればいい。

そのとき、食べるという行為は“義務”ではなく、“感謝”に変わる。


エピローグ


空腹が教えてくれること。
ある日、早朝の街を歩いていた。
パン屋の香りが遠くから漂ってきた。

その瞬間、自分の身体が「今、食べたい」と小さくささやいた。
それは義務でも、スケジュールでもない。

ただ、風の中に香りを感じて、胃が動いた。



そのパンは、とてもゆっくり噛みしめられた。
口にしたとき、思った。「これが、食べるということか」

食欲とは、コントロールでも我慢でもない。
それは、**自然のなかにいる生き物としての
“反応”**だった。

私は、あの日以来ずっと、
“空腹を待つ”という選択を大切にしている。

そして、空腹が教えてくれる朝は、
どんな栄養学よりも、確かに私を整えてくれるのだ。