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LIFE ESSay 『優しさを素直に受け取れない日』MAY 14.2025-Mor.Wednesday

今日は、少しだけ優しさがつらい日だった。

駅のホームで、見知らぬ人が落としたハンカチを拾ってくれた。


コンビニで、店員さんが「雨、大丈夫でしたか?」と、やわらかい声で聞いてくれた。

どちらにも「ありがとう」と返したけれど、声が自分でもわかるくらい、ぎこちなかった。 いつもなら、もっと自然に笑えるのに。

そのあと、帰り道で知らない小さな公園にふらりと入って、 ベンチに腰掛けた。空はうす曇りで、夕暮れ前の光がゆっくりと地面を染めていた。

どこかの家から晩ごはんの匂いがして、ちょっとだけ、泣きたくなった。


思えば私は、昔から「優しさ」をまっすぐ受け取るのが下手だった。

たとえば、小学生のとき。



友達に借りた消しゴムを、返すタイミングを逃してしまって、机の奥にそっと置いて返したことがある。


「ありがとう」も「ごめんね」も言えなかった。 返したことで自分の気が済んで、それ以上話すのがこわかった。

その友達とは、なんとなく距離ができた。
私が勝手に引いた距離だった。


高校時代、落ち込んでいた私に、クラスの男子が小さなラムネ菓子をくれた。
理由もなく、ただポケットから出して、机の上に置いた。

「それ、すっぱいけど、うまいから」

私は、うれしかったのに、「へえ」とだけ言って、目も合わせられなかった。


その日の帰り道、袋を開けて、一粒だけ口に入れた。 ほんとうに、すっぱかった。


大人になった今も、そんな調子で生きている。



仕事で褒められても、
どこかに裏がある気がしてしまったり、


誰かにごちそうになったとき、本当に喜んでいいのかわからなくなったり。

心の中では、何度も「ありがとう」を叫んでいるのに。


声に出すと、ひどくたどたどしくなる。


 言葉が少なくて、タイミングがズレていて、でもまっすぐで、どこか可笑い。

うまく笑えないことも、黙ってしまうことも、ぜんぶ含めて「その人」だと教えてくれる。

だから私は、そういう映画が好きなのだと思う。


公園からの帰り道、小さな花屋の前を通った。
店先に並んだ鉢植えに、小さな札がささっていた。

「もうすぐ咲きます」

その文字を見た瞬間、どうしようもなく、やさしい気持ちになった。

“咲きたい”でもなく、“咲かせます”でもない。

ただ、「咲きます」──そう静かに、そこにいてくれる言葉。

まるで、誰かの優しさがそっと差し出されたみたいだった。


その鉢植えを一つ、連れて帰った。

名前も知らないその花が、咲くころには、
今日のこの気持ちも、少しだけやわらかくなっているかもしれない。

優しさを、もう少しうまく、受け取れるようになっていたらいい。

誰かの気持ちに、まっすぐ「ありがとう」と言えるようになっていたらいい。

きっと、少しずつ。
鉢植えの横に、小さなメモを置いた。


「今日、やさしさに出会いました」
まだうまく言えないけれど、


それでも何かを受け取った証として──

(了)