
今日は、少しだけ優しさがつらい日だった。
駅のホームで、見知らぬ人が落としたハンカチを拾ってくれた。
コンビニで、店員さんが「雨、大丈夫でしたか?」と、やわらかい声で聞いてくれた。
どちらにも「ありがとう」と返したけれど、声が自分でもわかるくらい、ぎこちなかった。 いつもなら、もっと自然に笑えるのに。
そのあと、帰り道で知らない小さな公園にふらりと入って、 ベンチに腰掛けた。空はうす曇りで、夕暮れ前の光がゆっくりと地面を染めていた。
どこかの家から晩ごはんの匂いがして、ちょっとだけ、泣きたくなった。
思えば私は、昔から「優しさ」をまっすぐ受け取るのが下手だった。
たとえば、小学生のとき。
友達に借りた消しゴムを、返すタイミングを逃してしまって、机の奥にそっと置いて返したことがある。
「ありがとう」も「ごめんね」も言えなかった。 返したことで自分の気が済んで、それ以上話すのがこわかった。
その友達とは、なんとなく距離ができた。
私が勝手に引いた距離だった。
高校時代、落ち込んでいた私に、クラスの男子が小さなラムネ菓子をくれた。
理由もなく、ただポケットから出して、机の上に置いた。
「それ、すっぱいけど、うまいから」
私は、うれしかったのに、「へえ」とだけ言って、目も合わせられなかった。
その日の帰り道、袋を開けて、一粒だけ口に入れた。 ほんとうに、すっぱかった。
大人になった今も、そんな調子で生きている。
仕事で褒められても、
どこかに裏がある気がしてしまったり、
誰かにごちそうになったとき、本当に喜んでいいのかわからなくなったり。
心の中では、何度も「ありがとう」を叫んでいるのに。
声に出すと、ひどくたどたどしくなる。
言葉が少なくて、タイミングがズレていて、でもまっすぐで、どこか可笑い。
うまく笑えないことも、黙ってしまうことも、ぜんぶ含めて「その人」だと教えてくれる。
だから私は、そういう映画が好きなのだと思う。
公園からの帰り道、小さな花屋の前を通った。
店先に並んだ鉢植えに、小さな札がささっていた。
「もうすぐ咲きます」
その文字を見た瞬間、どうしようもなく、やさしい気持ちになった。
“咲きたい”でもなく、“咲かせます”でもない。
ただ、「咲きます」──そう静かに、そこにいてくれる言葉。
まるで、誰かの優しさがそっと差し出されたみたいだった。
その鉢植えを一つ、連れて帰った。
名前も知らないその花が、咲くころには、
今日のこの気持ちも、少しだけやわらかくなっているかもしれない。
優しさを、もう少しうまく、受け取れるようになっていたらいい。
誰かの気持ちに、まっすぐ「ありがとう」と言えるようになっていたらいい。
きっと、少しずつ。
鉢植えの横に、小さなメモを置いた。
「今日、やさしさに出会いました」
まだうまく言えないけれど、
それでも何かを受け取った証として──
(了)