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PERSOna Essayist Special『治るはずの場所で、誰も治らない』最終話 GW・特別企画 MAY 06.2025-Aft.Tuesday

その夜、彼女は静かにページをめくった。

母子手帳。

病院でもらったあの冊子は、すでに角がすり切れ、ページには無数の記録が並んでいた。

体温、接種履歴、体重の増減、栄養指導、母親教室の日程──

何もかもが、そこには「正しさ」として書かれていた。

だが、そのどれにも、彼女自身の直感は記されていなかった。

「いつか、この帳を燃やす日が来ると思ってた」

彼女は、そう言った。



焚火台に置かれた鉄皿の上で、ゆっくりと火が広がっていく。

書かれた記録が、音もなく灰になっていく。

母としての恐れ、不安、焦り。誰かの指示に従ってきた日々。

燃えていくページの中に、それらもまた染み込んでいた。

彼女の頬に、風が当たる。

火の粉が空へ舞う。

夜の静けさのなかで、彼女は初めて深く息を吐いた。



私は問いかける。

「なぜ、燃やしたのですか?」

彼女は少し考えてから、笑った。

「ようやく、自分で決めてもいいって思えたから。


帳があったから安心してたけど、帳があるから不安にもなってた。

全部、帳のせいじゃなくて、私の覚悟の問題だったんです」



子どもは近くで遊んでいた。

火を見つめながら、たまに何かをつぶやいている。意味はわからないが、その声には曇りがなかった。

「この子を信じるって、どういうことか分かってきた気がする」

彼女は言う。

「この子の免疫を信じる、回復力を信じる、そして、自分の感じたことを信じる。

それが“育てる”じゃなくて“生きる”ってことなんだと思う」



社会が用意した正しさから一歩はみ出すと、人は不安になる。

だけど、はみ出したところにこそ、「その人だけの輪郭」があるのだと思う。

帳は、安心を与えてくれる。

だが同時に、私たちを“枠”の中に閉じ込めてもいた。

それを燃やすことは、ただの否定ではない。

新しい肯定の始まりだ。



「また、書きますか? 何か別の帳に」

私がそう尋ねたとき、彼女は首を振った。

「もう書かない。記録しない。でも、忘れない」



未来は、数値では測れない。

たしかなものは、手の温度、呼吸の速さ、


夜中の沈黙に宿る気配。

そうしたものの中にしか、未来は芽生えない。



私は見ていた。

燃えた帳の灰が、風に乗って流れていく。

そしてその風に、確かに“始まりの匂い”があった。

帳を焼く日──


それは、また始める日だった…….