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PERSOnaEssayistSpecial『選挙に行かない自由”という危うさ』

投票所に行かない理由は、たくさんある。

「候補者の名前も顔も知らない」とか、
「誰がやっても変わらない」とか、


「自分の1票で何が変わるっていうの?」
「休みの日にわざわざ出かけたくないね!」

どれも、もっともらしく一見は聞こえる。


でもその一つひとつが、どれほどの“無力感”と“諦め”で成り立っているか、
私たちは自分で気づかないふりをしている。



選挙に行かないことは、勿論「自由」だ。

確かに、民主主義国家の国民には、
“投票する権利”  があるだけで、
“投票する義務”   はない。


行かない自由も、等しく認められている。
でも──
「自由」には、必ず責任が伴う。

選挙に行かない自由を選んだ人は、
その結果として、
「選ばれた誰か」によって社会が動かされるという現実も、
同時に受け入れなければならないと言う事実。



選ばれた人たちは、
私たちの知らないところで、

法律を作り、税金の使い道を決め、
未来の制度設計を進めていく。

選ばれなかった人、
つまり「選挙に関心を持たなかった人」は、
この先、その設計図の“蚊帳の外”にいる。

政治に期待していないから選挙に行かない、
という人もいるけれど──

それは結局、「自分の未来を、他人に任せる」という選択にすぎない。



たとえば、病気になったときに使う医療制度。


たとえば、子どもたちの教育にかかる予算。
たとえば、将来もらえる年金の制度。
たとえば、災害対策や、都市開発や、気候変動政策。

これらはすべて、
“誰かが決めている”のではなく、
“私たちが誰を選んだか”によって、成り立っている。



投票所に向かう足は、
自分の未来に向かう一歩だ。


それは時に面倒くさいし、
誰に投票していいのかわからないかもしれない。

でも、わからないなら調べる。
誰にもピンとこないなら、
「一番マシな人」を選ぶしかない。

民主主義って、理想主義ではなく、
“妥協の積み重ね”なのだ。



たとえば、

こんな時代に「選挙なんか意味ない」と言ってる人がいる一方で、

投票のために命をかけて戦っている人たちが世界にはいる。

投票できることが「当たり前」な日本で、

その当たり前が、


どれほど貴重で、どれほど繊細な権利なのかを、
私たちはもう一度思い出さなければならない。



もし今、

自分の暮らしや社会に対して「モヤモヤ」や「不満」があるなら──


それはもう、
立派な“投票理由”だ。



声を上げない人たちによって、
この社会はゆっくりと傾いていく。

それが“静かな崩壊”の始まりなら、


私たちが手にしている「一票」は、
その流れに楔(くさび)を打つ、
最後の道具かもしれない。



選挙に行かないことは、
自由ではある。


でも、その“自由”がいずれ自分たちを
締めつける“無力”へと変わることがある。



風に吹かれてるだけじゃ、
どこにもたどり着けない。


今、私たちは、
この国の「ハンドル」に・・・
手を伸ばすかどうかを試されている……