
春の匂いがすると、
必ず思い出す人がいる。
それも、たいした思い出じゃない。
桜の下で手をつないだとか、
手作り弁当を広げたとか、
そういう絵に描いたような美談じゃない。
どちらかといえば、
ただ、並んで歩いていただけだ。
それでも、そのときに感じた風の匂いや、
ほんの少し冷たい空気が、
今もずっと、体にこびりついている。
春は、少しだけ甘くて、
少しだけ寂しい。
道端に咲いたタンポポを蹴飛ばしながら歩いたこととか、
新しく買ったスニーカーに、
いきなり泥を跳ねさせて怒られたこととか。
そんなどうでもいいことばかりを、
春の匂いは連れてくる。
忘れていたはずの、
「たいしたことない記憶」たちが、
押し入れの奥から勝手に這い出してきて、
ちゃっかり心のソファに座り込む。
夏になると、
思い出す匂いは、少しべたつく。
あの頃好きだった人の、
安っぽいコロンの匂いとか、
夕立のあとのアスファルトの湿った匂いとか。
夏の思い出は、
なんだか汗と涙がまじっている。
ときどき、苦くて。
ときどき、笑っちゃうほど青臭い。
本当は大好きだったのに、
それを伝えるのが怖くて、
わざと冷たくしたあの頃の自分に、
つい、今でもちょっと腹が立つ。
秋の匂いは、
少しだけ、胸を痛める。
金木犀の香りがふわっと漂うと、
たった一度だけ、泣いた日のことを思い出す。
理由なんか、いまでもよく覚えてない。
ただ、泣くしかなかった日だった。
秋の風は、
そんな取り返しのつかない「どうしても」が、
ちゃんとあったことを思い出させる。
少し冷たくて、
でも優しくて、
ごめんね、って言いながら吹いていく。
冬は、匂いが薄い。
乾いた空気と、
遠くで煙突から出る煙の匂い。
それくらいしかないけれど、
冬の匂いは、なぜだか「がんばれ」と言ってくる。
街の光はにぎやかなのに、
心だけがやけに静かで、
誰かに会いたくなったり、
一人でいたくなったりする。
冬の匂いは、
「一人でいても、あなたはちゃんと生きてるよ」って、
そっと背中を押してくれる気がする。
季節は巡る。
同じようでいて、
いつもどこか違う。
匂いも、思い出も、
少しずつ形を変えながら、
それでもちゃんと私たちの中に積もっていく。
そしてまた、新しい春が来る。
あの頃とは違う道を、
違う靴で、
違う誰かと、
歩いているかもしれない。
でも、たぶん、
ふとした風の匂いで、
私はまた、どこかの思い出に連れ戻されるだろう。
それで、いいのだ。
季節の匂いと、
思い出の形は、
きっとこれからも、
静かに、しなやかに、
私をつくっていく。
だから今日も、
少しだけ鼻をすんとさせながら、
前を向いて歩いていこう……..