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LIFE ESSay『季節の匂いと、思い出の形』MAY 02.2025-Mor.Friday

春の匂いがすると、
必ず思い出す人がいる。

それも、たいした思い出じゃない。
桜の下で手をつないだとか、
手作り弁当を広げたとか、
そういう絵に描いたような美談じゃない。

どちらかといえば、
ただ、並んで歩いていただけだ。

それでも、そのときに感じた風の匂いや、
ほんの少し冷たい空気が、
今もずっと、体にこびりついている。



春は、少しだけ甘くて、
少しだけ寂しい。

道端に咲いたタンポポを蹴飛ばしながら歩いたこととか、
新しく買ったスニーカーに、
いきなり泥を跳ねさせて怒られたこととか。

そんなどうでもいいことばかりを、
春の匂いは連れてくる。

忘れていたはずの、
「たいしたことない記憶」たちが、
押し入れの奥から勝手に這い出してきて、
ちゃっかり心のソファに座り込む。



夏になると、
思い出す匂いは、少しべたつく。

あの頃好きだった人の、
安っぽいコロンの匂いとか、
夕立のあとのアスファルトの湿った匂いとか。

夏の思い出は、
なんだか汗と涙がまじっている。

ときどき、苦くて。
ときどき、笑っちゃうほど青臭い。

本当は大好きだったのに、
それを伝えるのが怖くて、
わざと冷たくしたあの頃の自分に、
つい、今でもちょっと腹が立つ。



秋の匂いは、
少しだけ、胸を痛める。

金木犀の香りがふわっと漂うと、
たった一度だけ、泣いた日のことを思い出す。

理由なんか、いまでもよく覚えてない。
ただ、泣くしかなかった日だった。

秋の風は、
そんな取り返しのつかない「どうしても」が、
ちゃんとあったことを思い出させる。

少し冷たくて、
でも優しくて、
ごめんね、って言いながら吹いていく。



冬は、匂いが薄い。

乾いた空気と、
遠くで煙突から出る煙の匂い。

それくらいしかないけれど、
冬の匂いは、なぜだか「がんばれ」と言ってくる。

街の光はにぎやかなのに、
心だけがやけに静かで、
誰かに会いたくなったり、
一人でいたくなったりする。

冬の匂いは、
「一人でいても、あなたはちゃんと生きてるよ」って、
そっと背中を押してくれる気がする。



季節は巡る。

同じようでいて、
いつもどこか違う。

匂いも、思い出も、
少しずつ形を変えながら、
それでもちゃんと私たちの中に積もっていく。

そしてまた、新しい春が来る。

あの頃とは違う道を、
違う靴で、
違う誰かと、
歩いているかもしれない。

でも、たぶん、
ふとした風の匂いで、
私はまた、どこかの思い出に連れ戻されるだろう。

それで、いいのだ。



季節の匂いと、
思い出の形は、
きっとこれからも、
静かに、しなやかに、
私をつくっていく。

だから今日も、

少しだけ鼻をすんとさせながら、

前を向いて歩いていこう……..