
「今夜は、何を話せばいい?」
彼が帰宅したのは、私が食器を片付け終わった頃だった。
ドアが閉まる音、鍵を置く音、シャツの袖を捲る音。
聞き慣れたはずの音が、今日は少し遠く感じる。
「おかえり」
「ただいま」
言葉は交わしたのに、目は合わなかった。
食事の時間が合わなくなり、
行き先を告げることもなくなり、
二人の間には、ゆるやかな空白が生まれ始めていた。
そして、それに気づかないふりをするのが、暗黙のルールになっていた。
「遠ざかる心」
以前は、どんな話題でもよかった。
「何を食べる?」
「今日は寒いね」
「仕事、どうだった?」
けれど、今は違う。
話題を選ぶこと自体が慎重になった。
相手の顔色を伺いながら、
地雷を踏まないように気をつける。
いつの間にか、会話は**「伝え合うもの」** ではなく、「壊さないためのもの」 に変わっていた。
それは、関係が長く続くうちに起こる自然な変化なのか。それとも、終わりが静かに近づいている兆しなのか。
どちらとも言えないまま、
私はいつもより少しだけ強く、ワイングラスを握りしめる。
「近づく想い」
夜中にふと目が覚めると、
彼の寝息がすぐ隣で聞こえた。
シーツの隙間から伝わる体温。
すぐ触れられる距離にいるのに、
昼間よりもずっと遠く感じる。
それでも、私はその寝息を聞いていると安心した。
遠ざかっているはずなのに、
まだ、こうして一緒にいる。
本当に遠ざかる心とは、
こうして同じ場所にいることすらできなくなることなのかもしれない。
「愛は近づくものなのか、遠ざかるものなのか」
昔は、何も考えずに「好き」と言えた。
けれど、大人になると、好きという感情すら曖昧になる。
好きだから一緒にいるのか、
一緒にいるから好きなのか。
分からなくなる瞬間が、時々ある。
でも、ひとつだけ確かなのは、
「まだ終わらせたくない」と思っていること。
それなら、
私たちはまだ、間に合うのかもしれない。