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住まいの「模様替え」とは、私に取って人生の故郷と同じで、生かされている定めであり、生き様の道程となる証です!?

物心ついた子供の頃、当時はインテリアなんていう言葉もない時代にそれは部屋の「模様替え」と呼ばれていた。今思えば熟年になりそれが私の心の故郷なんです。そもそもインテリアと言う言葉が使われ出したのは、昭和48年(1974年)頃からです。

模様替えは服装(ファッション)と同じように着替えをする事で心が弾んだりすることと似ています。

  • 日本には昔から家にも「衣替え」と言う習慣があったことをご存知ですか?

特に冬場と夏場の衣替えです。季節に応じて室内の模様替えを行う風習が当たり前のように行われていました。夏が近づくと畳の上に「網代」を引き部屋の障子は外されて「すだれ」で風通し良く間仕切りがされる様になります。

こんな時代を今見ればそれは平安朝時代と間違われますね!

それらは皆、寒さや暑さを心地よく過ごすために行われていました。自身にとってはその季節がとても楽しい時期でした。

理由もなく、嬉しいんです、なんでだろーと考えても楽しいからとしか言えない。

勉強はどちらかと言えば苦手でしたが、模様替えは自身の部屋を週一くらいでとにかく気分を変える様に動かしていましたね。

他のことは何もわからないし、そんなに器用でないのに!

それでもとにかく大学を卒業、就職、でも2年半しか続かなかった?

誰でも模様替えはできる!知識がなくても!学校で学ばなくても!

  • 好きならできる~それでいいんだよと言うことで自分でデザイン事務所を立ち上げた歳が25歳の春でした。

インテリアなんて洒落た言葉でなくても自分がしたい様にして楽しければそれでいいんだよと今にして思えば模様替えは楽しくやればと無謀なスタートでした。そこには必ずドキドキ感もワクワク感がなぜかいつも幸せでした。それが模様替え!

誰でも子供の頃から親がやることを見て育つものですから、父もとにかく部屋の中は素晴らしい空間で有ったことは未だに記憶があります。

  • とにかく事務所を立ち上げてから独学で早50年が過ぎ思う事は、好きな事だから一度も仕事をしていると言う気持ちがありませんでした。

それは一般的にはビジネスと言われますが、私にとってはビジネスではなく好きな事にお金を頂けると言う幸せな時を重ねて来ただけに過ぎません。

だから、基本的に営業と言うモノには苦手意識が今でもあります。

それはさかのぼれば、子供の頃は恥ずかしがり屋さんのシャイなこどもじだいでしたから、誰かに喋ること、一緒に遊ぶこと、喧嘩することもシャイだったからそれが営業と言う分野が苦手なんでしょうね。

だから自身は心の表現を模様替えで表現していたように思います。今思えば、部屋の事で相談されればどこまでも、時間を忘れて模様替えに没頭して凄いでしょう、僕は元気で頑張ってるよ!ですかね?

  • 私にとっては模様替えはある意味即興でピアニストがピアノの前に座り楽譜もなくいきなり鍵盤を叩きメロディーを演奏するみたいに。

部屋にある色んな物、それらを即興で模様替えをする、頭の中に浮かぶイメージに体が動き出しモノたちがバランスよく並んでいる見たいかな?要は自身の中にあるスイッチがはいり心地良いと思う表現です!

  • 知識とは、誰かが後から理由付ける単なる言葉(物語)に過ぎないと思う先ずは心の思いを!

先ずは移動しながら形作る表現が大事!物がなくても探してくれば良い!探してもないものは自分の頭の中にある物を作れば良い!難しいことではない。

素直に動けばそれで良し、専門の学校に行かなくても良い、勉強より大事なことは心の中にある感性とか感情(情熱)です。模様替えは私の人生そのもので1㎜も切り離すことは出来ないと今だからこそ思います。もしも切り離すならば、それは死を意味するに等しいことです。

  • 夢は世界中の人が住む模様替えをこの目で見てみたい。

今、出来れば移動する世界中のトレーラーハウスの個性ある模様替えも見たい。多分、其々の国の個性がり人の想いも垣間見えるからと好奇心だけは旺盛なのは今も変わりません。

  • 総論:やはり原点は千利休が作る茶室が人間の住まいに対する原点である! 

参考)諺の中に「起きて半畳、寝て一畳」のごとしです。狭いスペースの家は、究極の人間にとって「玉手箱」に似ています。人の数だけ玉手箱があり、人の数だけ模様替えは魅力です。

  • 今回、提案する『raku-style』は正しくその心意気を提案しています。

所詮、人生はあの世にはモノと言うモノは何も持って行くことはできませんから所詮人間も「生きる時も、死する時も裸」の手ぶらです。

だからこそ、今を楽しみ後悔の無い人生を送るのではないでしょうか!?

先の未来でもなく過去を振り返る事でもなく、多様性がどんなに細分化されようが、人間の本質はこの先も何も変わらない。それらは全て普遍的ではなく無情です。