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人の心に「潜む縁」とはどのような事を指しているか、今一度、読み解いては如何でしょう。

この世界に神なんてものが本当に存在するでしょうか?

神という存在のほとんどは人間が作ったものじゃないの?

神と呼んでいるものは全ては、人が作ったものです。

ですがその元は、ちゃんと存在しています。

神というのは、いろんな宗教などを横断的に調べていくと見えてくるのですが、全ての神はその土地や民族に伝わる「神話」の登場者であり、

私の知る限り全ての神話というのは文字がなかった頃から口伝されてきた物語です。この神話を読み解くと、大きく2つに分けることができます。

一つは「自然現象」などを抽象化し象徴を理解しやすく擬人化したもの、

もう一つは実際に歴史上存在した人間で、その行いや考え、あり方などを象徴したもの、この2つになります。

つまり神と呼んでいるものは全ては、人間が作ったものと言えます。でも、その元となった「自然現象」やそれに対する「人の行い、あり方」というのは、人が作ったものではなく、ひとが「見つけた」ものであり、砕いて言えば「知恵」「叡智」などと置き換えることができるようなものです。

たとえば、日本の「イザナギ、イザナミ」という古事記の一番初め頃に出てくる神話の登場者は、「男性・女性」を表しており、男女の特徴やその関係性について多くの知恵が書いてあります。

「男性は一つ余っていて、女性は一つ欠けているから、ここを合わせて国を作ろう」という表現があったり、「女性が先に口を開くと物事がうまくいかない」とか、「女性が見るなと言ったものを男性が見たら、その仕返しに全人類の寿命が恐ろしく縮んでしまうほど恨まれた」など、象徴的だけどもある程度具体的な物語があります。

ちなみに、逃げる途中、桃を投げることでなんとか逃げ延びたそうです。日本の古事記は面白い。(笑

でも神話というのはそれだけであって、HowToのようにああしろこうしろ、あれが正しくこれが間違い、のような表現というのは基本的に「ありません」。

本来の神話というのは全て、そこから何を学びどうすべきかを考えるのは読者(利き手)側に委ねられています。

読み解く例をあげると、男性の「余っている」というのは、どれだけやっても男性は常に力のやり場に困っていることを表していて、女性の「欠けている」というのは、女性はどれだけ満たされても、やがて不満や不安が出てくるものだということを表しています。

それぞれは、そのままではろくなものではないけれど、これを理解し合い、補い合うことで、「国」まで作れてしまう力があるのだ、と読み解くことができるわけです。

また、少なくとも、古事記や日本書紀という日本最初の「公文書」のさらに冒頭あたりに書かれていることから、この男女の特徴やその関係性というのが「国」を作る上で当時重要な要素だったことは明らかなわけですね。

このように、イザナギ・イザナミの物語だけでも、読むだけでも十分に面白いものですし、他の物語もそれをしっかりと読み解けば、過去数千年前(もしかしたらもっと前)の我々の祖先が、子や孫に何を伝えようとしていたのかが見えてくるわけです。

さらに、現代でも通用する、問題を緩和したり解決したりする「知恵」をたくさん見つけることができます。なんせ人間の本質は大昔から変わらず、起きる問題のほとんどは人間同士の話ですからね。

その「知恵」が我々の祖先の日々の生活を支えてきたのは間違いないわけで、多くの無駄な争いや無駄な痛みを避け、多くの恵みを受けてきたことは明らかなんです。そして、それこそが神に頭を下げ、未来に伝えていく理由なのです。

このように非常に優れた物語が、多くの民族で様々な神話として語り継がれてきたわけです。そして、文字ができ、書籍ができるようになると、それをより多くの人に共有されるよう、書籍にまとめられました。そして、その書籍化等でまとめられる際に、「宗教」のようなグルーピングができてきたわけです。

ただそれから、「宗教」というのは様々神話の「解釈」を入れるようになり、その解釈の解釈をしているうちに元からずれてしまっているものも少なくありません。

仏教などは、ブッダという人が出てきますが、実はこの人は非常にリアリストでかつぶっ飛んだ王子様で、破天荒な行動はたくさんしますがメルヘンは一切出てきません。民を救うためにどう行動するかであって、何を唱えろなど一言も言っていないのですよね。

現在のダライ・ラマも「ドラッグやアルコールやお金から幸せは得られません。究極の幸せや喜びは、思考によってのみ得られるのです。そして、宗教への信仰心から得られるものでもないのです。信仰するのではなく、考えなければなりません。我々人間の頭脳を使い、科学的に考えなければなりません。神様や仏様に祈る必要はないのです。」と言っていたそうです。

でも、これら以外で仏教に関わる人からそんな話を聞いたことがありません。勝手な解釈に勝手な解釈を重ねた挙句、もともとと違うことを言っていたりするわけです。

また、キリスト教の新約聖書などは、ヘブライ語が読み書きできる人に聞いた話ですが、もともとヘブライ語で書かれていたものを、別の言語に翻訳し、それをまた英語に翻訳してから日本語に翻訳していたりするので、もともと書かれていたこととは全く違ったことが書かれているのだそうです。

このような事情があって、もともとの神話がどうであったかというのも見えなくなってきているのもまた事実です。

その結果、残念ながら、現代の「神」というのは、かなり形骸化していて、日本ならメルヘンな「ごりやく⇨利益」があるとなれば殺到し、「お願い」ばかりして、誰も神話を読みません。また、そこから何かを「読み解こう」という読解力を持ちません。

パワースポットとか言われますが、それは人が「欲しがる」パワーが集中しているおぞましいスポットという意味ではないか?と思うほどです。

この辺りが、やはり宗教とかその辺りを遠ざける一つの要因になっているのは残念なことです。

でも、そもそも、神話を読み解けるその「読解力」がつけば、神話自体そこまで重要ではなく、自分に起きる物事から多くのことを学ぶことができるようになります。なんせ、神話というのは真実をベースにした「物語」なのですから。

「目の前に起きたこと」を全て力に変えられる、この力をつけることこそが「叡智」であって、それこそ最大の「利益」をその人や人々に与えてくれるわけです。

つまり、大事なのは神ではないし、神話でもないのです。

それは、あなたの心にある想いが一番大切です。

とても身近にあるものです。