
恋は、始まるとき、音を立てない。
ぱちん、と指を鳴らすようなわかりやすさはない。
それは、たとえば、
ふとした瞬間に目が合ったときの、
あの「少しだけ長いまばたき」。
あるいは、
名前を呼ばれたときに、
なぜか胸の奥が、ひゅっと縮こまる感じ。
それが、気配だ。
恋は「始まった」と誰にも宣言されない。
大げさな告白も、ラブソングも、まだない。
ただ、空気が、
ほんのわずか、
震えた気がするだけだ。
たとえば、
飲み物を手渡されたとき、
指先が少しだけふれた。
それだけで、世界がひと呼吸、長くなる。
たとえば、
何気ない言葉に、
妙に心が引っかかる。
「……え?」
たった一言に、何度も何度も、心が戻ってしまう。
恋は、光より先に、
温度でやってくるのかもしれない。
ほんのすこし、
ぬるんだ空気。
皮膚のすぐ下でざわめく、血の流れ。
自分でもコントロールできない鼓動。
「好き」なんて言葉になるずっと前に、
体が、
心が、
世界に微細な歪みを感じとってしまう。
でも、
それに気づくのは、
たいてい、ずっと後だ。
その人がいない街角を歩いているとき。
ふとしたタイミングでスマホを開いたとき。
コーヒーの匂いをかいだとき。
何もないのに、
ただただ、その人を思い出してしまう。
「ああ、あのとき……」
そう、あのときすでに、
恋は、始まっていたのだ。
気配を、
ちゃんと感じられる人間でいたいと思う。
大きな声で宣言されなくても、
小さなサインを見逃さずにいたい。
相手の言葉の端に、
まなざしの奥に、
そっと寄り添っている優しさやときめきを、
ちゃんと拾える人間でいたい。
恋は、気配で始まる。
まだ「恋」と呼ばれないうちに、
世界はそっと、静かに、色を変えていく。
音もなく、
静かに、静かに、
心の中心に降り積もっていくものだから。

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