

風は、
何も言わないくせに、
たくさんのことを教えてくれる。
たとえば、
「いま立ち止まっていいよ」とか、
「もう少しだけ頑張ってごらん」とか。
目には見えないその流れが、
私たちの背中を押したり、
ときにはそっと引き止めたりしている。
若い頃は、そんな風の声なんて聞こえなかった。
ただがむしゃらで、
「走らなきゃ」「負けちゃいけない」
そんな焦りに突き動かされる日々だった。
無理やりにでも、
向かい風に逆らって歩こうとした。
たとえ心が擦り切れても、
たとえ体が悲鳴を上げても、
「それが正しい」と信じ込んでいた。
でも、風はちゃんと吹いていたんだ。
「今じゃない」
「もう十分だよ」って。
気づかないのは、
いつだって、自分だった。
いつからだろう。
風の匂いに、耳をすませるようになったのは。
朝、カーテンを揺らす柔らかな風。
駅までの道で頬を撫でる冬の風。
夏の夜に草の匂いを運ぶ、湿った風。
ひとつひとつが、
「今」を教えてくれている気がする。
ある春の日、
小さな公園のベンチに腰掛けて、
ぼんやりと風を感じていたときのこと。
ふと、わかった。
「手放してもいいものがある」
「守らなくていいプライドがある」
そんなシンプルなことに。
気がついたら、
肩の力が抜けていた。
そして、
少しだけ泣いた。
何かを諦めたんじゃない。
何かを許したんだ、と思った。
風は、教えてくれる。
「変わっていいんだよ」と。
「終わっても、また始めればいい」と。
人はときどき、
「終わり」を怖がる。
「変わること」を裏切りだと勘違いする。
でも、風は言う。
**「同じ場所に立ち続けるためには、
変わらなきゃいけないときもあるんだよ」**と。
いま、私は、
風の流れに身を委ねることを、
少しずつ、覚えはじめた。
全力で逆らうでもなく、
ただ、無理に従うでもなく。
ちゃんと感じて、
ちゃんと選んで、
ちゃんと、自分の足で立って、
一歩踏み出す。
そんなふうに、
風と一緒に、生きていきたい。
たとえ誰にも見えなくても、
たとえ誰にも聞こえなくても。
私には、ちゃんと聞こえる。
風が、今日もどこかで、
そっと教えてくれている。
「だいじょうぶ。
あなたは、ちゃんと、生きているよ。」
