
あのとき、
私は、きっと、抱きしめたかった。
その手が、こんなにも震えていたのに、
その胸が、こんなにもぎゅうっと痛かったのに、
私は、手を伸ばさなかった。
理由は、ない。
ただ、怖かったんだ。怖かったんだよ。
手を伸ばした瞬間に、
自分が全部壊れてしまう気がして。
泣きたくもないのに、泣きたくなってしまう気がして。
強がっていたかった。
傷なんかないふりしていたかった。
大人のふりしていたかった。
あの人が、「大丈夫」って笑った顔。
ほんとは全然、大丈夫じゃない顔だった。
私は、それに気づいていた。
気づいていたのに、気づかなかったふりをした。
手を伸ばさないことが、
優しさだと、勝手に思い込んだ。
ほんとは、私が守られたかっただけなのに。
季節は何度も変わった。
駅前の桜も、
あの川沿いの銀杏並木も、季節ごとに違う顔を見せるけど、私の中の「あのとき」だけは、いつも、同じ場所にいる。
凍ったまま、時間だけが積もっていく。
もしあのとき、思いきって抱きしめていたら、
何が変わっただろう。
あの人は少しだけでも、楽になっただろうか。
私は少しだけでも、救われただろうか。
わからない。
わからないけど、たったひとつ言えるのは、
「後悔してる」ってことだ。
後悔しているからこそ、
私は今も、人を大事にしようって思うんだ。
だから。
次に、誰かの寂しさに出会ったときは。
言葉じゃなくて、
理屈じゃなくて、
勇気でもなくて、
ただ、手を伸ばそう。
泣いたって、いいじゃないか。
壊れたって、いいじゃないか。
あのときできなかったことを、今度こそ、できるように。何度でも、生まれ変わるみたいに。
そして、きっと、
あのときの私も、抱きしめてやろう。
何もできなかった、
不器用で、臆病で、でも本気で誰かを想っていた、あの小さな私を。