
「誰かに見られているような気がする」
そう思った瞬間から、
言葉の選び方が、少しずつ変わっていく。
SNSで、何かを発信するたびに
“炎上しないこと”が第一目標になっていく。
「これは角が立たない言い回しか」
「誰かを無意識に傷つけていないか」
「ちょっとポジティブすぎないか?」
私たちは、自分の言葉を
何重ものフィルターにかけてから放つようになった。
気づけばそれは、
“自分で自分を検閲する”という
ひそやかで恐ろしい癖になっていた。
人は、本来もっと雑だった。
もっとぶっきらぼうで、もっと衝動的で、
もっと不器用だったはずなのに。
今や私たちは、
“感じたこと”よりも“感じてよさそうなこと”を選び取って毎日投稿し、生きている。
検閲とは、
誰かの手で行われるものだと思っていた。
けれど今の社会では、
他人の目を気にして、
私たち自身が自分の感情に
“公開許可”を与えようとしている。
「これは今の空気的にOKか」
「この怒りは“正義”として認められるか」
…そんな風に。
そうして、“ありのままの感情”は
いつの間にか発信の対象から外され、
静かに内側に蓄積されていく。
するとどうなるか?
何も言えなくなる。
「感じてるのに、言葉にできない」
という苛立ちが、
だんだんと“感じないふり”へと変わっていく。
感情は、検閲されると腐る。
これは、実感だ。
本当は誰かに聞いてほしかった小さなモヤモヤ。
ささやかな嫉妬や、悲しみ。
それらを「大したことない」と自分で弾いた瞬間、感情は、言葉の形を失ってしまう。
失った言葉は、
自分でも拾えなくなる。
今、私たちはSNSだけでなく、
リアルの会話の中でも、
“自分をどう演出するか”に疲れている。
「あなたの言葉、わかるよ」
なんて反応を期待して、
“言える感情”しか差し出さなくなる。
結果、言わなかった本音たちは
心の中の“どこか”に積もっていく。
私は、正直に言えば、
この社会の“ポジティブ強制”が
ちょっと息苦しいと感じている。
「前向きにいこうよ」
「感謝を忘れずに」
「ネガティブなことを言う人は嫌われるよ」
…うん、わかってる。
でも、それが全部“正義”になるのなら、
ネガティブの中にある本音は
いったいどこへ行くのだろう。
表現の自由って、
大げさな話じゃなくて、
日常のつぶやきの中にもあると思う。
「今日、なんかしんどい」
「どうしてあの人ばっかりうまくいくんだろう」
そんな言葉こそ、
ちゃんと残せる社会であってほしいと思う。
私は、うまく笑えない日がある。
優しくなんてなれない日もある。
でも、それすらもちゃんと「書いていい」と思える場があれば、
人はもう少しだけ、
楽に、ちゃんと人間らしくいられるんじゃないか。
だから私は、
自分の中の「これは出していいか?」という声を
ときどき、無視することにしている。
誰かに否定されてもいい。
正解じゃなくてもいい。
誰かにとっての「不快」になったとしても、
それは、私の中の「感情の事実」だから。
検閲の時代に、
ちゃんと「あなた自身」として書くこと。
それが、今いちばん勇気のいる表現かもしれない。

“Censorship you can’t see. Emotions you can’t own.”