
美しさとは、“信じ込まされた視覚”に過ぎないのか。
ある日ふと目にしたコメント。
「女優さんのあの陶器のような白いスベスベ肌、
どうやって手に入れているのか知りたい」——
その声は、今を生きる多くの女性たちの素朴な疑問であり、無意識のうちに内面化された“美”の定義そのものだった。
だが、私たちはもう一度問い直すべきだと思う。「それは本当に“本人の肌”なのか」と。
加工という名の正義
広告業界に身を置く者にとって、「素肌美」は多くの場合、後加工の産物であることは常識だ。
スキンケアのブランドでも、化粧品のCMでも、雑誌の表紙でも、撮られたままの写真が使われることは、まずない。
それは“理想像”の投影であり、いわばファンタジーに近い。
照明、カメラワーク、レタッチ、肌補正。
写真の中の彼女たちは、美しいというより“整っている”。
それがあまりに自然で“リアル”に見えるからこそ、現実の私たちは自らを見てため息をつく。
実際に会った女優の印象は、「整っている。でも、普通に綺麗な人」だった。
そう、“異次元”ではない。彼女たちは“実在の人間”だった。
「若さ」は特別じゃない
若い肌は、誰でもきれいだ。
それは特別なケアの賜物ではなく、生理現象に近い。
しかし、30代後半、40代、50代と歳を重ねるにつれ、「違い」があらわれる。
この差を生むのは、日々の意識と積み重ねだ。
アンチエイジングを始めるのは、老けてからでは遅い。
本当に肌を保ちたいなら、20代から“未来の自分”のために投資するしかない。
それを、女優や表に立つ職業の人は知っている。
なぜ「美容外科」を語らないのか?
エステや高級化粧品は口にしても、美容外科に通っていることは、日本ではいまだ“語るに憚られる”話題だ。
だが、本音の部分では、意識の高い人ほど医療的美容を取り入れている。
理由は明白だ。効くから。
エステは癒しだ。
だが、本当に肌を変えたいなら、医療的なアプローチが必要だ。
ヒアルロン酸、レーザー、内服薬、点滴、体質改善。
美容外科は今や「こっそり努力する場」であり、“秘めた闘い”の最前線でもある。
「塗る」ことの限界
化粧品の広告は、「美しくなる希望」を売っている。
だが現実には、化粧品が肌を“変える”ことはない。
皮膚は外界から成分を吸収しない。
吸収すれば、毒素やアレルゲンが入り放題だ。
そんな危ういシステムは人体に備わっていない。
だから、どんなに高価なクリームでも、塗るだけで肌質が改善することはない。
必要なのは、肌の仕組みを理解し、自分に合った“科学的”なケアを選ぶこと。
「美」に疲れないために
陶器のような肌も、シミのない顔も、すべてが“演出された美”ならば、
私たちはもう少し、力を抜いてもいいのかもしれない。
きれいになる努力を否定するつもりはない。
だが、比べる対象が虚像であるなら、その努力は自分を苦しめる。
「本当の美しさとは、自分がどう在るかを、自分で決める力」
私はそう信じたい。
Epilogue ― 美の正体は、誰の視線の中にあるのか
鏡の前で立ち止まり、ふと目を逸らす。
それは、他人の視線に傷ついた“私”ではなく、
自分の視線に裁かれている私自身なのだと気づく瞬間がある。
美しさの正体は、他人の眼ではなく、自分の内側に宿るもの。

陶器のように完璧に見える肌も、現実の光と影の中で育まれる。
私たちは「加工」ではなく、「手入れ」と「生き方」で、自分の肌と向き合っている。 それが、本当の美の始まり。
それを忘れない限り、たとえ年を重ねても、
誰もが“美しい人”でいられるはずだ。