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PERSOna Essayist Special『忘れたふりがいちばん苦しい』APR 26.2025-Nit. Saturday

「もう忘れたよ」 「気にしてないよ」 「大丈夫、大丈夫」

口にするたび、なぜか胸が少しずつ痛くなる。忘れたはずのことが、ひょいと心の中で立ち上がる。 そして静かにこうささやく──「本当に忘れた?」

記憶というのは、思い出したくないものほど、鋭利な輪郭を残している。


時間が経っても、些細なきっかけで蘇ってくる。 匂い、景色、言葉、人の声。それらが記憶の扉をノックしてくる。



40代の終わり頃に、ひとつの別れがあった。 自分から別れを告げたくせに、言った瞬間に後悔した。 でも引き返せなかった。 そのとき、相手が最後に見せた顔──あの一瞬の表情が、ずっと脳裏に焼きついている。

忘れたふりをして、たくさん笑った。 誰かに好きと言われるたび、 「もう大丈夫」と思い込もうとした。

でも、夜になると心の奥から声が聞こえてくる。

「あなたは本当に癒えたの?」



人は、自分を守るために忘れる。 でも、忘れたことにしている自分が、 一番その記憶にしがみついているのかもしれない。

人間関係において、ふとしたタイミングで思い出が傷のように疼くことがある。


「笑ってるけど、本当は傷ついてるんだよ」 そんな誰かの笑顔を見るたび、自分も同じように誰かの前で演じていた日々を思い出す。



過去を乗り越えるとは、 “消すこと”じゃない。 “共に抱えて生きること”なのだと、最近ようやく理解できた。

記憶は、消すものではない。 整えるものだ。
ぐちゃぐちゃに折りたたんだまま心の引き出しに詰め込んでいると、 ふとした拍子に取り出してしまったとき、余計に痛む。

だから私は今、 忘れたふりをやめることにした。

「あのときの私、あれが精一杯だった」 そうやって、自分を許してあげる。



ある日、昔好きだった音楽を久しぶりに聴いた。 イントロが流れた瞬間、涙が溢れた。 あの頃の風景や空気、服の感触、部屋の匂い──すべてが一気に押し寄せてきた。

「やっぱり、忘れてなんていなかったんだな」 そう思った。 でも、涙の質は少しだけ変わっていた。

悲しいだけじゃなく、どこか懐かしくて、愛おしくて。 傷は完全に癒えていない。 でも、ちゃんと風通しのいい場所に出してあげれば、 記憶は少しずつ“居場所”を見つけていくんだと思った。


Epilogue


忘れたふりで自分を守っていた日々。
でも、傷も記憶も、ちゃんと愛せるようになったとき、 人はほんとうに前を向けるのかもしれない。

忘れないということは、痛みと一緒に生きていくこと。 そしてその痛みが、誰かの痛みにも寄り添える優しさになること。

そんなふうに、過去と共存できる大人になりたい。