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PERSOna Essayist Special『SNS既読の哲学』APR 14.2025-Nit.Monday

~なぜ既読スルーは刺さるのか?~


既読スルー。
たったそれだけのことなのに、
なんでこんなに胸に引っかかるんだろう。

私は今日もスマホの画面を見つめながら、
誰かの“沈黙”に、勝手に感情をざわつかせている。



LINE。DM。メッセンジャー。
どんな媒体でも、既読がつくと「見たこと」が証明される。

見たのに、返さない。
気づいてるのに、無視される。
そう思った瞬間、言葉じゃない何かが心に突き刺さる。

でもほんとうに“無視”なんだろうか?



返信できない理由なんて、山ほどある。

疲れてる。
急いでた。
返す言葉が見つからない。
あるいは──単に「忘れてた」。

にもかかわらず、
既読スルーは“拒絶”として心に落ちてくる。

なぜだろう。



たぶん、それは「読まれた=届いた」と感じてしまうから。
それだけで“心の一部”を渡した気になってしまうから。

既読スルーが刺さるのは、
こちらが勝手に「受け取ってもらえると思った」からなのかもしれない。



SNSの既読表示って、優しさのようでいて、
じつはとても冷たい透明な刃みたいなものだ。

人の気持ちがそこにあるように見せておいて、
実際には、何も保証しない。

“既読”って言葉、皮肉だよね。
「もう、読まれてしまった」ってことだもの。
もう戻せない。もう直せない。もう、隠せない。



返信をしない自由。
でもそれは、相手の「返してほしい自由」を切り捨てることにもなる。

SNSは、自由の集合体だと思っていたけど、
ほんとうは不自由な関係性の鏡かもしれない。



ねえ、言葉って、そんなにすぐ出るもんじゃない。
“考えさせて”って言いたいときだってある。
“時間がほしい”って思ってるときだってある。

けど、それを表現できないのがSNSの怖さなんだ。
沈黙が、いつも“悪意”に変換されてしまうから。



私として言わせてもらえば──
「未読無視」は“逃げ”だけど、
「既読スルー」は“選ばなかった”ってことだ。

沈黙の向こうにあるのは、
選ばなかった言葉たちの墓場かもしれない。

でも、そこに悪意があるとは限らない。



SNS時代を生きるわたしたちは、
「言葉の届かなさ」にも、
少しだけ慣れていかないといけないのかもしれない。

そうじゃないと、
いつか“誰かの沈黙”で、自分が壊れてしまうから。



だから今日もまた、
既読がついた画面をそっと閉じて、
コーヒーでも淹れて、少しだけ深呼吸する。

既読は“終わり”じゃない。


返事がないことすら、対話のうちだと、そう思える日がくるまで。