
21世紀の社会は、かつてSFの世界で描かれたディストピアに驚くほど近づいている。
スマートフォンが普及し、
顔認証技術が進化し、
データはあらゆる場所で収集・分析される。
この流れを止めることはできない。むしろ、監視社会はテクノロジーの進化とともに加速度的に広がっている。
たとえば、中国では「天網(スカイネット)」と呼ばれる監視システムがすでに実装されており、数億台の監視カメラが人々の行動を追跡している。
AIによる顔認識はすでに政府の管理システムと統合され、市民の社会的信用スコア(ソーシャル・クレジット)が決定される仕組みだ。
「監視」と「信用」が結びつくことで、
人々の行動は管理され、社会秩序が維持される。このシステムの導入によって、一部の都市では犯罪発生率が大幅に低下したとも報じられている。
しかし、それは自由と引き換えの秩序に過ぎない。では、日本はどうか? 表向きには中国ほどの監視社会ではないが、それは「気づいていないだけ」とも言える。
防犯カメラは年々増加し、コンビニや駅、商業施設には顔認証システムが導入されている。
LINEやX(旧Twitter)、InstagramなどのSNSの発言はもちろん、クレジットカードの利用履歴や交通系ICカードのデータも記録される。
ネットショッピングの履歴や検索履歴はAIによって分析され、「個人の好み」を把握した企業がターゲット広告を打つ。
あなたの購買行動は、すでにマーケティングAIの監視下にあるのだ。
監視の代償と社会の分岐点
監視社会の是非を論じるのは簡単だが、重要なのはそれが私たちに何をもたらすかということだ。
監視が徹底されれば、確かに犯罪は減る。
テロリストや詐欺師、ストーカーは捕まりやすくなるし、冤罪もAIによる証拠分析で減少する可能性がある。
一方で、政府や大企業が個人情報をどのように利用するのか、制御できるのかという問題は依然として残る。
プライバシーを優先するのか、それとも「安全」を優先するのか。
自由の名のもとにリスクを許容するのか、それとも「社会の安定」のためにすべてを監視するのか。
かつてジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたディストピアが、私たちの未来にどこまで近づくのか――
その答えは、私たちが今、何を選択するかにかかっている。