
愛に基準なんてあるのだろうか。
そんな問いかけをしたら、大抵の人は「そんなものない」と笑うだろう。でも、人はみんな無意識に、愛に基準を持っている。
頻繁に連絡をくれるかどうか。
相手がどれだけ尽くしてくれるか。
ふとした時に思い出してくれるか。
それらを天秤にかけ、心のどこかで「愛されているかどうか」を測っている。
それは昔も今も変わらない。
けれど、時代が変わるにつれ、愛の測り方も変化してきた。
かつては「一緒にいる時間」こそが愛の証だったけれど、今は「どれだけ尊重されているか」に重きが置かれるようになった。
物理的な距離よりも、精神的な距離のほうが重要視される。好きなら結婚すべきだという時代は終わり、愛のかたちは多様になった。
共に生きることだけが愛ではなく、相手を自由にさせることもまた、愛なのかもしれない。
では、どんな愛が本物なのだろう。確率論でいえば、長く続く恋愛は少数派だ。
すべての恋愛が成就するわけではないし、100%の確信を持てる相手と出会うことはほぼない。
だからこそ、恋愛には「感情」という最大の不確定要素が必要なのだ。
確率だけで考えれば、恋はリスクが高すぎる投資でしかない。でも、愛に生きる人は、そのリスクを負う。なぜなら、理屈よりも感情のほうが、人を幸せにすると知っているから。
そして、新しい愛の基準とは、「どれだけ心が動いたか」ではないだろうか。
喜びも悲しみも、怒りも嫉妬も、すべてを含めて、どれだけ自分の感情が揺さぶられたか。それが愛の大きさなのかもしれない。
確率論では測れないもの。合理性では片付けられないもの。
それが、恋愛が続く理由であり、終わる理由でもある。
だからこそ、人は何度でも恋をするし、そのたびに「今度こそ本物かもしれない」と思うのだ。