人と人との縁というものは不思議だ。
偶然の出会いが人生を変えることもあれば、長い付き合いがある日突然途切れることもある。それでも、その「縁」というものをわざわざ「切る」と言い放つのは、どうにも不自然に思えてならない。
ある時、親しい友人がこう言った。
「もうあの人とは縁を切ったよ。」
その言葉に、私は少し戸惑った。そして思ったのだ。「縁」というものは、そもそもそんなに簡単に切れるものなのか、と。
例えば、木の枝を切るように「縁を切る」と言うけれど、根っこの部分ではどうだろう?もともと土の中で絡み合った根っこは、切ったつもりでも完全に分かつことはできない。それが人間関係というものではないだろうか。
確かに、誰しも他人とぶつかったり、失望したりすることはある。でもその一瞬の感情で「縁を切る」という行為は、むしろ自分自身を狭めてしまう気がするのだ。
私はこう思う。
縁を切るよりも、放っておく方がずっと自然ではないか、と。
そもそも人間関係というものは、無理に繋ぐものでも、無理に切るものでもない。時が来れば勝手に薄れるものもあれば、長い間途切れていたものが再び繋がることもある。まるで潮の満ち引きのように、自然の摂理に任せていれば良い。
ひとつ、思い出深いエピソードがある。
学生時代に親しかった友人と、大人になって疎遠になった時期があった。私の心のどこかには、「もう彼とは縁が切れたのだろう」と思い込んでいた。しかしある日、不意に届いた手紙がきっかけで、再びその友人と連絡を取るようになった。お互い少し年を重ねた分、昔よりも会話が穏やかになり、かえって深い友情を築けるようになったのだ。
その時、私は気づいた。縁は切るものではなく、ただ一時的に遠ざかるだけのものなのだと。そして、縁の強さを決めるのは、互いにどれだけ自然体でいられるかということだ。無理に繋ごうとしなくても、無理に切ろうとしなくても良い。ありのままでいれば良いのだ。
人生には不思議な縁が巡る。その縁がどんな形で私たちの中に残るのか、それを決めるのはきっと「自然体でいる心」だと思う。
だからこそ私はこう感じる。
「縁を切る」と声高に言うのは、人間の驕りであり、愚かさだと。すべての縁に感謝し、それを押し流すような時間に身を委ねる方が、よほど穏やかで素敵な生き方なのではないだろうか。
私たちが生きるこの一瞬一瞬を、自然体で楽しむこと。それこそが縁を活かし、人生を輝かせる鍵ではないかと思うのだ。
人と人との縁、それは切るものではなく、ただ共に流れるもの。
人生において、縁を完全に切るという行為は、むしろその縁の存在を自ら証明しているのかもしれません。縁を意識しているからこそ、それを切るという言葉が生まれる。けれども、それは本当に必要なことなのでしょうか。
ある意味で、「縁を切る」という行為には、力が入りすぎている気がします。むしろ、「縁が切れた」と自然に感じる瞬間、それは切ろうと努力したわけでもなく、ただ時間が流れる中で薄れていっただけのこと。その方がよほど心地よく、穏やかに見えるのです。
私は最近、ある年配の方からこんな話を聞きました。その方は長い人生の中で多くの出会いと別れを経験し、「縁は水のようなもの」と話していました。「水は流れ、形を変え、時に蒸発して消えるように見えるけど、本当は消えたわけじゃない。巡り巡ってまたどこかで出会うんだよ。」その言葉に深く頷いたのを覚えています。
人間関係もまた、無理に繋ぐ必要もなければ、無理に切る必要もありません。ただ自然に身を任せ、時が来たらまた再び繋がることもある。そう思えば、人との出会いや別れも、もっと肩の力を抜いて受け入れられるのではないでしょうか。
縁を切ろうと力むよりも、ただその縁がもたらした時間や記憶に感謝し、次の流れに身を委ねる方が、心はずっと軽くなるものです。
最後に一つだけ、心に留めておきたい言葉をお伝えします。
「縁を切る必要なんてない。縁がある限り、いつかどこかでまた巡り会う。それが人生の面白さであり、優しさだ。」
さあ、今日もあなたの縁を、自然体で楽しんでみてください。それがどんな形でも、きっとあなたの人生を輝かせてくれるはずです。