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ESSay CollEction 「忘れられた靴」No2

電車に乗ると、誰もがそれぞれの時間を過ごしている。スマホをいじる人、居眠りをする人、ぼんやり外を眺める人――何気ない日常の風景だ。でも、そんな穏やかな空間がふとしたことで彩りを持つことがある。

その日も、私はいつも通り電車に揺られていた。お昼過ぎの車内は通勤ラッシュも終わり、どこかのんびりとした空気が流れている。けれど、ひとつだけ妙に目を引くものがあった。

車両の隅に転がっていたのは、片方だけの靴。
よく磨かれた茶色い革靴で、その場違いな存在感が私の目を引いた。「何で片方だけ?」と不思議に思う。いや、周りの人たちも同じだったようで、ちらほらと靴に視線を向け始めていた。

「珍しいわねぇ、靴が片方だけなんて。」
隣に座る初老の女性が、思わず独り言のように漏らす。その声がきっかけとなり、車内の興味が一気にその靴に集中した。

やがて次の駅で、若い男性が乗り込んできた。背の高い、少し痩せた男が車内を見渡すと、目を輝かせて「ああ、これだ!」と言いながら靴の元へ駆け寄った。

「これ、僕の靴です!」
彼の声が響くと、周りの乗客たちは一斉に彼に注目した。照れ笑いを浮かべながら彼は言った。

「すみません、実は家を出るとき急いでいて、片方だけ履いたまま飛び出してしまったんです。それで、もう片方を鞄に入れて持ってきたんですが、満員電車で落としたみたいで……」

「片方だけ?それで?」誰かが思わず聞き返す。

「はい、気づいたら鞄の中も空っぽで、靴が片方だけなくなっていて……いや、こんなこと、ありますかね?」
彼の言葉に、車内がどっと笑いに包まれた。人々は何とも言えないその妙な状況に、つい吹き出してしまう。

男性は拾い上げた靴を大事そうに持ちながら、次の駅で降りていった。その背中を見送りながら、私は何とも温かい気持ちになった。

電車の中は、彼が降りた後もどこかほのぼのとしていた。見ず知らずの他人同士が、何かを共有する瞬間があったのだ。そんな空気に包まれていた私だったが、ふと気づく。

「あれ、私……降りる駅、通り過ぎてるじゃないか!」

思わず口元がほころぶ。靴の忘れ物を見て、いつの間にか自分も大事なことを忘れていたのだから。

人生も靴も、時には片方を失くして初めて、その大切さに気づくのかもしれない。
そう心の中でつぶやきながら、私は電車を降りて引き返すために次の電車を待った。片方の靴が生んだ、小さな出来事――それは日常に転がる、ささやかな幸せの欠片だったのだ。

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