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実話映画「杉原千畝」物語から、日本人の勇気と人間性を垣間見てお盆を過ごした意味は大きい!

今日も湘南は平和な世の中です。

毎年、お盆は終戦記念日と重なり

死者を弔う行事が行われますが・・・

何時になれば「戦争」が愚か者の仕業だと気が付いていても

日本人は無関心な輩が多すぎる事に憂います。

第二次世界大戦の嵐が吹き荒れる中、世界は恐怖と絶望に包まれていました。
特にヨーロッパのユダヤ人たちは、ナチス・ドイツの迫害から逃れるために必死の逃避行を続けていました。そんな中、一人の日本人外交官が異国の地で数千人のユダヤ人を救うという、歴史に残る壮絶な人道的行動をとったのです。
彼の名前は杉原千畝。

1. 時代背景
1939年、ナチス・ドイツがポーランドを侵攻し、第二次世界大戦が勃発。
ヨーロッパ全土が戦火に包まれる中、ドイツ国内とその占領地では反ユダヤ主義が国家政策として進められホロコーストが始まりました。
ユダヤ人は強制収容所へと送り込まれ虐殺が行われ、逃げる術もなく絶望に陥っていました。600万人以上のユダヤ人が命を奪われるという世界史上でも類を見ない惨劇が繰り広げられていたのです。
 
ナチスは「アーリア人種優越主義」という誤った理論を掲げ、非アーリア人であるユダヤ人やスラブ人などを「劣等人種」として扱いました。
このイデオロギーは、19世紀に形作られた人種理論を基盤としており、

アーサー・デ・ゴビノーやヒューストン・ステュワート・チェンバレンなどの思想家によって発展されました。彼らは、ヨーロッパの白人を「アーリア人」として最も優れた人種と位置付け、それ以外の民族を抹殺すべき存在とみなしていたのです。


2. 杉原千畝の決断
1940年、リトアニアのカウナスで日本領事館に勤務していた杉原千畝は、ユダヤ人難民が大使館前に列をなしているのを目の当たりにしました。
彼らはナチスの手から逃れるため、リトアニアを脱出しようと必死にビザを求めていたのです。しかし、当時の日本政府は、枢軸国としてナチス・ドイツとの関係を重視し、難民へのビザ発給を禁止していました。
 
杉原は、上司や東京からの命令に反してでも、このユダヤ人たちを助けるべきかどうかで葛藤しました。彼は、自らのキャリアや家族の安全を考えれば政府の指示に従うのが当然でした。しかし、彼の心の中で強く響いたのは、人間としての倫理と責任でした。
 
彼は妻に相談し、最終的に人間としての義務を果たす決断を下しました。
「目の前で助けを求めている人々を見捨てることはできない。」そうして杉原は、限られた時間の中で昼夜を問わず、次々とビザを書き続けました。彼が発行した「命のビザ」は、6000人以上のユダヤ人に希望の光を与えたのです。

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当時のビザです


3. 勇気と犠牲
杉原の行動は、彼自身にとっても大きな犠牲を伴いました。戦後、日本外務省は彼の行動を問題視し、杉原は外交官としてのキャリアを失いました。
しかし彼は決して後悔することはなく、自らの行動が数千人の命を救ったことに満足していました。
晩年、彼の功績は世界中で認められイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」の称号を授与されました。彼の名前は、エルサレムの「ヤド・ヴァシェム」ホロコースト記念館に刻まれ、その勇気と人間性は永遠に称えられることとなったのです。


 
4. 人間性の輝き
杉原千畝の物語は戦争という極限の状況下でも、人間性が決して失われることなく輝くことを証明しています。
彼の行動は、ナチスの冷酷な人種主義と対照的に人種や宗教に関係なく人命を尊重するという普遍的な倫理の力を示しました。
彼が発行したビザは、ただの紙切れではありませんでした。それは、人間の尊厳と希望を象徴するものであり、何千人ものユダヤ人に新たな未来を切り開く扉を提供したのです。

この物語は、今なお、困難な状況に立ち向かうすべての人々に勇気とインスピレーションを与え続けています。

 
編集後記
杉原千畝の物語は、個人の勇気と道徳的な選択がいかにして歴史を変える力を持つかを教えてくれます。
彼の行動は、現代社会においても、私たちが直面する倫理的なジレンマに対する道しるべとなるでしょう。戦後80年を迎える日本では「戦争」自体が風化して誰も戦争経験者が無くなっています。

そんな中で時代は又もや怪しい時代になって行くような雰囲気が漂っています。

とても憂います。

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いつの世も、人は死んでから名誉をを称える愚か者の輩です!

終戦後、外務省から事実上解職された杉原氏は何も語らなかったが、救われたユダヤ人が杉原氏を捜し出し、その功績が世に知られたのは68年になってからだった。終戦後は事実上免職となり、商社勤務などを経て86年に死去。2000年に河野洋平外相(当時)が遺族に謝罪し、名誉を回復した。