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終戦から数年後、京都の先斗町で産声をあげた天草四郎とまで言われた色白で胃腸の弱い(美少年)と言われたボンボンの履歴書?

注)天草四郎とは島原の一騎のリーダーで色白の美少年の事です

当然ですが自分が生まれた瞬間なんて誰も記憶に無い筈です。やはり物心が附きだす3~4歳の頃から何となく思い返す事は出来るかもです?

当時私がミッション系のナースリー(保育園)に通っていた頃は、多分に母が市内を走るチンチン電車で送り迎えをしていたと思います。

幼稚園のボンボンがラッパのような処から聞こえる音に不思議だとずっと離れようとしない。

その後、上級生の幼稚園児に上がる頃からは一人で電車に乗る事も無く徒歩で幼稚園にかよっていたと思います。距離的には1キロも無いと思います。

今で言えば、4歳から5歳の2年間子供が一人で外にいること自体でアメリカでは犯罪行為になりますね(笑 戦後の日本も京都の田舎では安全だったんでしょう。

その通園時に時折ですが鮮明に記憶があるのは、幼稚園に行く途中に大徳寺の水路の様なものが有り小さな手すりに牛が一頭繋がれている場所があり、そこをどうしても通り過ごす事で毎かい怖い思いをしていた記憶があります。

当時、カソリック系のナースリーから幼稚園と5年くらい通っていたことで小学校は学区内の小学校に入学するも学校行事には関係ない協会の礼拝だけには行っておりました。

当時、私の家庭ある程度恵まれ、父は繊維会社を経営していましたので毎日お迎えの運転手が乗る車が朝には迎えに来ていました。当時、どういう訳か金持ちのボンボンと言われる事が嫌で街なかにいる「お乞食さん」と言われる人の横にちょこんと座り親子の様な素振りでお賽銭を貰った記憶は我ながらあっぱれです。

当時、純和風の離れに洋館を立てた時の両親の写真。 右のボンボンは宝ヶ池にいますね!

その後、地区内の小学校に入学しますが休みの日曜日だけは日曜礼拝と言われる穴の礼拝に小学校を卒業するまで通い詰め入ていました。

その時に同じ歳の子に初恋らしいことも経験し今でも名前を憶えています。

顔はバタ臭く西洋人の如くそばかす顔。まるで日本人らしからぬ顔をしていました。当時、その初恋は中学生になる時に終わりを遂げ、彼女は京都の同志社中学に進学、私は中学受験など頭の隅にも無い子供時代に初の挫折感を味わいました。

大勢の写真の中に初恋の女性がいます。

当時、私は勉強より模型作りにはまり小遣いを貯めては模型を買う小学生で船を作れば公園の池に浮かべて走らせたり、飛行機を作ればやはり公園内で飛ばし、電車を作れば家の中でレールを引いて走らせていたり冬には家の前で積もった雪と無邪気に遊ぶ時代を過ごしていました。

家の前に積もる雪化粧の中でそりに乗るボンボン!

今にして思えば人生には何度も何度も選択肢があり人生の進む道を選ばされる世の中と思っていました。とにかく学校から帰れば近所の大文字山や船岡公園がある船岡山にいって遊び、飽きたら家に帰り自分の部屋の模様替えなどを好んでやっていた小学生時代でした。

思い起せば今も自分の家も良くイメージチェンジをしている源流が小学生の時に既にあったと言う事ですね(笑。とにかく勉強よりは遊びに没頭していた6年間!

写真は現在の船岡山で高さは112mです。

当然、その後中学に進学しますが、その中学校が悪い中学校で有名でした。

それは今で言う(不良)が多くいる学校で、イジメに合っていた記憶も薄らとありましたが、そこはうまく立ち回り大げさなイジメには合っていなかった。

最上段列の左から4番目がボンボンです。

でも本当に煙草は吸うは他校と集団喧嘩をするやら、異性との不純交際と賑やかでしたね。ですから中学校の想いではそんなに記憶が無い感じでいます。

否、思えばトラウマになりかねないので無意識に排除して居た感があったかも。

当時の不良は本当に怖い存在で、同級生の何人かは高校に進学をすることなく暴力団の組にお世話になるという、まるで本物の悪が行くような中学校でしたね。

風のうわさや同窓会で話を聞きますが、同じクラスの勝ちゃんという暴力団になった実の弟は警察官になったとか聞くと、それ「落」とちゃうか?

関西人特有の話ですが、どうやら勝ちゃんの話は本当らしい。

今とは時代があまりにも違い、同じクラスの同級生は普段は仲良くツルンデ駄菓子屋に行き万引きをしていた事もありました。と言っても可愛いモノでエビ煎1枚5円を2枚にくっ付けて誤魔かして2枚を5円で買う見たいなせこい万引きでしたね(笑

それも店番のばあちゃんが目が悪いから簡単と言えば簡単でしたから・・・

そんなこんなの中学校を無事に卒業するは良いが、なんと高校受験は見事に敗退。

と、この続きは次回にお話になります。