
靴音だけが心に響いた夜
深夜一時過ぎ、アパートの外階段を降りると、
街はもう眠っていた。
カツ、カツ……と、自分の靴音だけがコンクリートに吸い込まれていく。
灯りは少なく、月は雲の向こう。
夜風に揺れる洗濯物の影だけが、
ゆらゆらとまだ“起きている”ようだった。
なぜだかその晩、コンビニに行きたくなった。
牛乳が切れたわけでもなく、お腹が空いていたわけでもない。
ただ、「誰かが起きていてくれる場所」に触れたかったのかもしれない。
そんな言い訳めいた理由を、わざと頭の中で繰り返す。
行動に名前をつけると、なんとなく安心できるから。
遠くからバイクの音。誰かの笑い声。
でもそれらは、どこか“別の物語”の音で、
私とは関係のない時間に聞こえた。
駅前のコンビニに入ると、外国人の店員が「イラッシャイマセ」と機械的に言った。
彼の声は妙に甲高く、それもまた異国の人らしい滑らかな違和感があって、私はそれに少しだけほっとした。
“完全な日常”ではないものの中に、
私は今日だけ、身を置きたかったのだと思う。
牛乳と、チョコレート。
レジに並びながら、ふと中学のころを思い出す。
夜に抜け出して近所のスーパーで立ち読みしていたあの頃。
“何も起こらない”ことが、逆に自由だった。
何者にもなっていないから、どこへでも行ける気がしていた。
今より、ずっと。
帰り道。ビニール袋の中で、牛乳が揺れる音。
そのリズムに合わせて、私の靴音も少しだけ軽くなった。
静かな夜だった。
耳をすますと、聞こえるのは靴音と、自分の呼吸だけ。
その単純なリズムに、なぜだか少し泣きたくなった。
だけど泣かなかった。
たぶん、それも、今の私の選択だった…….