

ニュース番組は、
今夜も「正義」を全面的に演出した内容で放映している。
MCの冷静な語り口調。
街頭インタビューの“声なき市民”たち。
SNSで拡散される「わかりやすい怒り」。
そして、数秒で切り取られた誰かの「失言」。
それらすべてが、
“わかりやすい敵”を作り、
“安心できる側”を演出する為に、
慎重に編集され、
今日も完璧に企画・構成されている。
まるで台本があるかのように。
否、正に、台本が創られている・・・
でも、ほんとうにそれは「正義」と言えるのか。
言葉を失った人達、
間違えた人達、
ごく普通の人達、
彼らがその「正義」と言う鎧の演出によって
どれだけの声を消され、切り捨てられてきたのか誰にも知らない事実──
その問いは、決して表舞台には上がらない。
私は知っている。
「演出された正義」とは、
ときに暴力を引き起こす事になる。
誰かを糾弾することで、
自分の不安をごまかすような風体で。
「間違っていない」と言い聞かせるために、
異物を叩き、本質から切り離す。
それは、正義ではなく、
ただの“集団的な偽りの行為”だ。
安心させるために、
ひとつの正義を信じ込ませ──
その構造は、まるで宗教にも似ている。
だが、社会には“グレーゾーンな”面も必ずある。
正しさと、正しさがぶつかることも。
加害者と被害者が入れ替わることも。
声を出せない人が、
その沈黙ゆえに「加害者」とされることもある。
喋らないことは、
無罪でも有罪でもない。
ただ、その人の内側で
どうしようもなく複雑に、
感情が絡まりあって混乱しているだけなのだ。
けれど、
テレビは沈黙な場面をあえて放映しない。
SNSでは混乱する様の投稿が氾濫している。
「わかりやすさ」だけが、
いまの世界では正義の定義だと言わんばかりに。
私たちは、
その構造に無自覚なまま、
誰かの声を「なかったこと」にしていないか。
“演出された正義”が毎日流れてくるなかで、
私たちはどれだけ「聞かない選択」をしているだろうか
聞こえないのではない。
聞きたくないのだ……
私は、
誰の味方にもならない。
ただ、
「声にならなかった声があった」
という事実だけは、
消してはいけないと思っている。
たとえ、その声が間違っていたとしても。
たとえ、誰かを傷つけていたとしても。
声を失った人達がいた。
その存在を、
正義という名前でなかったことにする社会は、
必ず、自分自身の首を締めることになる。
正義とは、
静かに更新されていくべきものだ。
誰かの怒りに便乗するものではなく、
誰かの沈黙にも耳を澄ませる事と思う。
それが、
この社会で私たちが
かろうじて持てる「正義」なのだと思う…….