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LIFE ESSay 『あのとき抱きしめていれば』APR 30.2025-Mor.Wednesday

あのとき、
私は、きっと、抱きしめたかった。

その手が、こんなにも震えていたのに、
その胸が、こんなにもぎゅうっと痛かったのに、
私は、手を伸ばさなかった。

理由は、ない。
ただ、怖かったんだ。怖かったんだよ。


手を伸ばした瞬間に、
自分が全部壊れてしまう気がして。
泣きたくもないのに、泣きたくなってしまう気がして。

強がっていたかった。
傷なんかないふりしていたかった。
大人のふりしていたかった。

あの人が、「大丈夫」って笑った顔。
ほんとは全然、大丈夫じゃない顔だった。

私は、それに気づいていた。
気づいていたのに、気づかなかったふりをした。

手を伸ばさないことが、
優しさだと、勝手に思い込んだ。

ほんとは、私が守られたかっただけなのに。



季節は何度も変わった。

駅前の桜も、
あの川沿いの銀杏並木も、季節ごとに違う顔を見せるけど、私の中の「あのとき」だけは、いつも、同じ場所にいる。

凍ったまま、時間だけが積もっていく。

もしあのとき、思いきって抱きしめていたら、
何が変わっただろう。

あの人は少しだけでも、楽になっただろうか。
私は少しだけでも、救われただろうか。

わからない。
わからないけど、たったひとつ言えるのは、
「後悔してる」ってことだ。

後悔しているからこそ、
私は今も、人を大事にしようって思うんだ。



だから。

次に、誰かの寂しさに出会ったときは。

言葉じゃなくて、
理屈じゃなくて、
勇気でもなくて、

ただ、手を伸ばそう。

泣いたって、いいじゃないか。
壊れたって、いいじゃないか。

あのときできなかったことを、今度こそ、できるように。何度でも、生まれ変わるみたいに。



そして、きっと、
あのときの私も、抱きしめてやろう。

何もできなかった、
不器用で、臆病で、でも本気で誰かを想っていた、あの小さな私を。