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HUMAN DRAMA『「風とコーヒーの味』短編

ただ、朝が来るだけのこと

コーヒーの香りが部屋に広がる。
静かに湯気を立てるマグカップを手にしながら、ナガセは窓の外を眺める。

何の変哲もない東京の片隅。
通勤電車がホームに滑り込み、ネクタイを締めた男たちがせわしなく動く。
彼らには行くべき場所があり、果たすべき使命がある。

だが、ナガセにはもう、それがない。

かつては大手広告代理店の敏腕ディレクターだった。
新商品を売るためなら、どんなキャッチコピーも捻り出した。
「消費は美徳」と信じ、眠らずに企画を考えた夜もある。

しかし、四十五歳の誕生日を迎える前日、ふと気づいてしまったのだ。
自分が作った広告の商品を、自分は一つも欲しいと思ったことがなかった、と。

その瞬間、心が空っぽになった。

それから半年後、ナガセは会社を辞めた。


「よう、おっさん」

「おっさん、まだ寝ぼけてんのか?」

ナガセが振り返ると、いつもの顔がそこにあった。
金髪にピアス、破れたジーンズの若者――ユウヤだ。

彼は駅前のコンビニで夜勤のバイトをしている。
昼間は暇を持て余し、公園のベンチでコーヒーを飲むナガセに絡んでくる。

「お前こそ、ちゃんと寝てんのか?」

「まあな。でも、おっさんはどうしていつもここにいるんだ?」

「別に理由なんかないさ。風が吹くからだよ」

「また訳のわからんこと言ってる」

ユウヤは笑いながら自分の缶コーヒーを開けた。


風にまかせて、ただ生きる

ナガセの今の仕事は、街の古いビルの清掃員だ。
週に五日、営業前に床を磨き、机の埃を払う。

単調な仕事だが、誰かの役に立っているのだと思うと、それだけで十分だった。

「なあ、おっさん」

ある日、ユウヤがぽつりと呟いた。

「オレ、夢とか目標とか、そういうのが見つからないんだよ」

「……焦ることはない」

「でもさ、何かを成し遂げないとダメなんじゃねえの?」

ナガセはしばらく黙っていたが、コーヒーをひと口すすり、ゆっくりと口を開いた。

「昔、俺もそう思ってたよ。でもな、風は目標なんか決めない。ただ吹くだけだ」

「風?」

「ああ。行くべき場所を決めなくても、流れに身を任せることでしか見えない景色もある」

ユウヤは難しそうな顔をしていたが、やがてふっと笑った。

「……おっさんって、めんどくせえな」

「そうかもしれん」

二人は缶コーヒーを片手に、ただ風の音を聞いていた。


過去は過去として、でも——

ある日、ナガセはビルの窓を拭いていると、懐かしい名前を呼ばれた。

「……ナガセ?」

振り向くと、スーツ姿の女性が立っていた。

元同僚のカオルだった。

「あなた、こんなところで何してるの?」

「まあ、見ての通りさ」

カオルはナガセの服装を見て、少し驚いたようだった。

「嘘でしょ……? あんなにバリバリ働いてたのに」

「俺は、ただの清掃員だよ」

カオルの表情が複雑に揺れた。
昔、ナガセと一緒に競い合い、深夜までプレゼン資料を作った仲だ。
彼がこうなってしまったことに、少なからずショックを受けたのだろう。

「もったいない……」

そう呟いて、彼女は足早に去っていった。

ナガセはしばらくその背中を見送っていたが、やがて静かに窓を磨き始めた。


それでも、風は吹く

夜、いつもの公園に行くと、ユウヤがいなかった。

いつもならダラダラと煙草を吸い、缶コーヒーを片手にふざけた話をするのに。

少し気になったが、風が吹いた瞬間、その心配はどこかへ飛んでいった。

翌日、コンビニに寄ると、レジの奥でユウヤが制服を脱いでいた。

「やめるのか?」

「おう。オレ、東京を出てみようと思う」

「そうか」

「オッサンが言ってたろ? 風にまかせてみろって」

ナガセは笑った。

「そんな話、覚えてたのか」

「まあな。……世話になったな」

ユウヤは照れ臭そうに笑い、右手を差し出した。

ナガセも無言でその手を握った。

「じゃあな」

ユウヤが店を出て行く。

その背中を見送りながら、ナガセは静かにコーヒーをすすった。


エピローグ:人生は、ただ続いていく

次の日も、その次の日も、ナガセの朝は変わらない。

画像
夕暮れの風が、静かに頬を撫でる。 コーヒーの香りとともに、今日という時間が流れていく——

コーヒーを淹れ、窓の外を眺める。
いつものビルへ行き、掃除をする。
夕方には公園のベンチに座り、風を感じる。

「目標を持て」と、世間は言う。
「何かを成し遂げろ」と、誰かが叫ぶ。

だが、風はそんなことは言わない。
風は、ただ吹くだけだ。

ナガセはその風の中で、そっと目を閉じる。

「今日も、いい風だ」

彼の手には、いつものコーヒーがあった。

そして、人生は今日も続いていく——。

あとがき:「風と生きること」

人は、何かを成し遂げなければならないのだろうか。
この問いに、はっきりと「No」と答えるのは、案外難しい。

私たちは、生まれた瞬間から「目標を持て」と言われ続けてきた。
幼い頃は「大きくなったら何になりたい?」と尋ねられ、
学生になれば「将来の夢は?」と問い詰められる。
社会に出ると「キャリアプランを考えろ」「成果を出せ」「価値を生み出せ」と、
まるで何者かにならなければ生きている意味がないかのように。

でも、本当にそうなのか?

何者かになるために生きるのではなく、
ただ、「ここにいる」だけでは、ダメなのだろうか。

この物語の主人公・ナガセは、何かを手放した男だ。
大企業を辞め、社会的な成功を追うことをやめた。
そして、ただ風の吹くままに生きている。

彼は決して「何もしていない」わけではない。
コーヒーを淹れ、本を読み、街を掃除する。
誰かが気にもしない落ち葉を拾い、
誰もが素通りする朝の光に目を細める。

一見すれば、単調な毎日かもしれない。
しかし、その一瞬一瞬は、確かに彼のものだ。
彼の目には世界が映り、彼の肌は風を感じている。

それは、誰かに評価されるべきものではない。
何かの目的があるわけでもない。
ただ、そういう生き方が、そこにあるだけだ。

この物語を書きながら、私自身、自分の生き方を問い直してみた。
私も、気づけば「何者かにならなければ」という焦りの中にいる。
もっと評価されたい。
もっと意味のあることをしなければ。
そんな思いが、常に胸のどこかを占めている。

けれど、本当に大切なのは、そういうことなのだろうか。

人生は、壮大な目標を成し遂げるための「手段」ではなく、
今この瞬間を生きることそのものが、「目的」なのではないか。

風は、どこへ向かおうとも、ただ吹く。
木々を揺らし、街を駆け抜け、どこかへ消えていく。
その行き先に意味などない。
でも、確かにそこにあり、誰かの頬を撫でている。

ナガセのように、風のように生きること。

それは、何かを諦めることではなく、
人生を「ただ感じる」ことなのかもしれない。

——今日も、いい風が吹いている。

(了)