序章:物書きとして、震災と向き合う
私は、幸いなことに大きな震災に直面した経験はない。
しかし、震災の記録や証言を読むたびに、その痛みや喪失感に胸を締めつけられる。
物書きとして、 「伝える」 ことは私の使命の一つだと思っている。
直接の被災者ではない私だからこそ、できることがある。
それは、震災を経験した人々の想いを 「言葉」 として未来へ繋げることだ。
阪神・淡路大震災から30年が経った今、このエッセイが 震災の記憶を風化させないための一助 となることを願っている。
第一章:「震災の衝撃」――1995年1月17日 午前5時46分
それは、あまりにも突然だった。
真冬の冷え込む未明、神戸の街はまだ静寂に包まれていた。
しかし、その静けさは、一瞬にして 地の底から轟くような音 に打ち砕かれた。
ゴゴゴゴゴ……ドォォォン!
地鳴りとともに、激しい揺れが襲いかかる。
木造の家々は悲鳴を上げながら崩れ落ち、高速道路はまるで折り曲げられた玩具のように横倒しになった。
人々の眠る家の中では、家具がなぎ倒され、窓ガラスが砕け散る音が響く。
「助けて……誰か……」
瓦礫の下から聞こえるかすかな声。
必死に手を伸ばすが、あまりにも多くの建物が崩れ、助けを呼ぶ声は次第にかき消されていく。
夜が明けると、街の景色は変わり果てていた。
至るところで火災が発生し、オレンジ色の炎が街を焼き尽くしていく。
水道は止まり、消防隊は思うように消火活動ができない。
死者6,000人以上、負傷者4万人以上――。
瓦礫の下から救出された命もあれば、あと一歩間に合わなかった命もあった。
しかし、そんな中でも人々は生きるために動き出していた。
「大丈夫か?」
「この毛布を使って!」
見ず知らずの人々が声をかけ合い、助け合う姿があちこちで見られた。
震災は人々の暮らしを奪ったが、 「人と人の繋がり」 だけは、決して失われなかった。
第二章:「しあわせ運べるように」誕生秘話
あの日、多くの命が奪われ、多くの夢が途絶えた。
しかし、震災の中で生まれた 「希望」 もあった。
神戸市の小学校で音楽教師をしていた 臼井真 先生。
彼は、震災で家を失った子どもたちの 心の傷を癒す方法 を模索していた。
「音楽にできることはないだろうか?」
そう考えた彼は、ピアノに向かい、静かに鍵盤に手を置いた。
そして、生まれたのが 「しあわせ運べるように」 という歌だった。
♪ 地震にも負けない 強い心を持って
♪ 亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きていこう
シンプルなメロディーに乗せられた、祈りのような歌詞。
この歌は、やがて学校中に広まり、子どもたちが自然と口ずさむようになった。
歌うことで、心が軽くなる。
歌うことで、誰かのために生きようと思える。
そして、この歌は神戸を超え、日本中へと広がっていった。
第三章:「未来へのメッセージ」
あれから30年。
「しあわせ運べるように」は、今もなお 被災地で歌い継がれている。
2011年、東日本大震災が発生したとき、避難所の片隅で 一人の少女 が小さな声で歌い始めた。
「♪ しあわせ運べるように……」
その歌声に気づいた周りの人々が、次第に一緒に歌い始める。
やがて、避難所全体がひとつの歌声に包まれた。
熊本地震、西日本豪雨――
日本はその後も幾度となく自然災害に襲われた。
けれど、どの震災の現場でも、この歌が響き渡っていた。
「歌には、心を繋ぐ力がある」
震災はいつ起こるかわからない。
しかし、私たちは 「誰かと支え合うこと」 を知っている。
そして、それを伝え続けることが、未来への備えとなる。
この歌は、これからもきっと、どこかで誰かを励まし続ける。
エピローグ:「しあわせ運べるように」
♪ しあわせ運べるように
♪ かなしい涙を 変えて笑顔に
♪ しあわせ運べるように
♪ わたしたちにできること
震災は決して 「過去の出来事」 ではない。
これは 未来へ伝え続けなければならない「記憶」 なのだ。
そして、私たちが今できることは、
「次に震災が起きたとき、どう支え合えるか」を 考え続けること だろう。
「しあわせ運べるように」――
この歌が、これからも 誰かの支えになりますように。
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