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値上げの背後に見えるもの

つぶやきツイー

どうでも良いような些細な疑問!

ここ何年か、企業の値上げ攻勢が続いている。
まるで値上げしなければ損をするかのような印象を受ける。


企業がこぞって便乗値上げし、
節度も思いやりも譲り合う精神も失われつつあるように思う。


何かが壊れはじめ、
どこか終わりが近づく足音が聞こえる

ここ数年、値上げのニュースを耳にしない日はない。ガスに電気、食品に日用品――まるで「値上げしなければ損」と言わんばかりに、企業が一斉にその波に乗っている。もしかしたら、企業も生き残るためにやむを得ないのかもしれない。でも、そのたびに胸の中に小さな違和感が広がる。

「これは本当に必要な値上げなのか?」
いや、もっと根っこのところで――「何かが変わり始めているんじゃないか?」そんな思いが頭をよぎる。

本題

昔、町には節度があった。お互いを思いやる心があった。高くても安くても「お互いさま」だった。それが、今はどうだろう。値上げは仕方ないとしても、どこか「譲り合う精神」が消えていくように思う。まるで利益を優先するあまり、人と人の間にあった温もりまで値段をつけているかのようだ。

人は数字の後ろに隠れて、目に見えない大切なものを少しずつ失っていく。値札に「思いやり」や「信頼」は載らない。けれども、それらが消えたとき、人は気づかないまま豊かさを見失っているのではないだろうか。

値上げの話を聞くたび、どこかで何かが壊れはじめている音がするように思う。
それは、物の値段が上がる音ではない。

もっと静かで、もっと深い場所から響いてくる音だ。今の暮らしの中で聞こえるその音は、「終わりが近づく足音」のように私の耳に届く。

誰が見ても、この光景を見たら、きっとこう言うだろう。「値上げなんてことよりも、俺たちはもっと大事なものを見失っていないか?」と。

〆の言葉

人の暮らしは、物の値段だけで測れるものじゃない。それは、手を差し伸べ、譲り合い、笑顔を交わす心のやり取りで支えられてきた。たとえ値段が上がろうと、私たちはその精神を手放してはいけないのだ。

最後に、私はこう思う。「値上げを嘆く前に、私たちは人としての節度を思い出すべきではないか?」その小さな節度こそが、社会を支える無形の財産なのだから・・・