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時間を共有する大切さ

人は、生まれてから一つのことをずっと無意識にしている。それは、時間を使うことだ。どんな人間にも平等に与えられ、やがて平等に失われる。その不思議な「資産」は、日々少しずつ私たちから取り上げられ、振り返る暇さえないまま消えていく。けれど、それがどうやって失われたのか、私たちはほとんど覚えていない。

先日、ある友人と久しぶりに会うことになった。私たちは、かつてよく足を運んだ小さなカフェで再会した。懐かしさが込み上げてきた。互いに目尻に刻まれたしわを笑いながら、何も言わずに座り、コーヒーを一杯頼んだ。友人は、忙しい日々を送っているが、私と過ごすこの一瞬を、何か特別なものにしたいとでも言うように、静かに時間を共有してくれた。

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先日、ある友人と久しぶりに会うことになった。

人は時折、忘れがちになる。時間はどれだけ貴重か、そして誰とその時間を使うかが、どれほど大切かを。日々の忙しさに追われ、目の前のことに夢中になるあまり、時間を「単なる通過点」として捉えてしまう。しかし、本当はそうではない。私たちは、時間を通して誰と繋がり、何を感じ、何を学ぶかで人生の価値が決まるのだ。

私たちは、意識せずとも毎日86400秒を持っている。それは一度手にしたら、二度と戻ってこない瞬間の積み重ねだ。この時間をどう使うかは、実はお金よりも重大な選択だ。だが、その使い方を本当に理解するのは、往々にして遅すぎる場合が多い。多忙な生活の中で、私はかつて家族や友人、恋人と過ごす時間を軽視してきた。誰にでもあることだろう。けれど、そんな日々を過ごしていると、いつの間にか大切な人との「時間」が、自分の手のひらからすり抜けていくのだ。

私たちの時間は、たくさんの人に分け与えられている。仕事、義務、雑用。それらは私たちに「重要なもの」に見えるかもしれない。だが、果たしてそれが本当にそうだろうか?友人との再会の後、私は思った。「時間を分け与える相手は、本当に大切な人なのだろうか?」と。

友人と別れた後、私は昔の思い出が詰まった場所を、ひとり静かに歩いた。風の音、木々のざわめき、日々の喧騒が少し遠のくと、私の心の中に、一つの問いが浮かんできた。「もし、明日が最後の一日だとしたら、私は誰と過ごすだろう?」その答えは、すぐに出た。

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私は多忙な生活で、家族や友人と過ごす時間を軽視してきた。

思い返してみると、私たちは最も大切な人にこそ、最も大切な時間を与えるべきなのだ。時間は、単なる「経過」ではない。それは「共有されるべきもの」だ。大切な人たちと過ごす時間には、特別な意味がある。それは、何も語らずとも、互いの存在が持つ力によって、時間そのものが豊かになるからだ。

時間の使い方には、2つの選択肢がある。ただ「過ごす」か、「共有する」か。過ごすだけなら、私たちの人生はいつか記憶から消え去るだろう。だが、共有することで、その時間は永遠に残る。互いの心の中に、絆として刻まれるのだ。

家族と食卓を囲む時間、友人と交わす笑い声、大切な人と共に過ごす静かな夜。これらの瞬間は、決して「無駄」なものではない。むしろ、それらこそが私たちの人生を形作り、支えてくれるものだ。だからこそ、時間を分け与える相手を、慎重に選ぶ必要があるのだろう。

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家族と食卓を囲む時間、大切な人と共に過ごす静かな夜。

「時間」とは、単なる数字ではなく、思い出であり、感情であり、絆だ。それは、私たちが生きた証であり、私たちの存在を証明するものだ。だからこそ、私たちはその時間を大切に使い、誰と分け合うのかを心に留めて生きていくべきだ。

私が歩いた道の先には、いつもの帰り道が続いていた。その先にある日常の中で、私はもう一度、時間という無形の宝物を誰と共有するかを考えながら、ゆっくりと足を進めた。

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時間を分け与える相手を、慎重に選ぶ必要があるのだろう。

私は日々、自身が気になる出来事をエッセイ風に書き上げる物語を『Short Story』として日々、お届けしています。


今回のテーマは「時間」で、人々が皆~いつでも時間の価値を再確認しながら「誰と時間を共有するか」が人生にとって最も重要なことだというメッセージを物語としてお伝えしました。

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