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LIFE ESSay『美しいか、美しくないか――日本人が大切にしてきたこと』APR 28.2025-Aft.Monday

かつて熊本の幣立神宮を訪れたときのこと。
正式参拝を終えた私たちに、神主さんがぽつりと語りかけてきた。



「日本人が大切にしてきた『神道』には、あるものが存在しないんです。
さて、それは何だと思いますか?」



しばし沈黙が流れた。

教えがない――。

それが、彼の答えだった。



教えがない宗教。 そんなものがあるだろうか?

世界中を見渡しても、宗教と呼ばれるものには必ず”教え”が存在する。 守るべき掟があり、破れば地獄へ落ちるという脅しがあり、救われるために救世主を待つ。

でも、神道にはそれがなかった。
戒律も、地獄も、救世主も。



なぜなら、神道は宗教ではなく、
日本人の「生き方」そのものだったからだ。

そこにあるのは、 「これは美しいか、そうでないか」という、 ただその一つの感性だった。

誰かに裁かれるのではない。
誰かに救われるのでもない。

自らの内に宿る感性に、静かに耳をすませる。
そして、自ら選び取る。



「その行為は美しいか?」

「その生き方は美しいか?」

問いかける相手は、他人ではない。
たった一人、自分自身。



教えがないから、争わない。
地獄がないから、怯えない。
救世主を待たないから、誰もが自ら歩く。



日本人は、自然と共に生きる中で、 この感性を育み、 “美しさ”を道しるべに歩んできた。

美しいか、美しくないか。
それが、私たちが受け継いできた、目に見えない羅針盤だったのだ。



時代が変わっても。 世界がどれほど騒がしくなっても。 この静かな感性だけは、 私たちの内に、確かに生き続けている。



今日という一日を締めくくるとき。 ふと胸に手をあてて、自分に問いかけたい。

「今日の私は、美しかっただろうか?」

誰にも見えなくてもいい。
答えを知っているのは、
ほかならぬ、自分自身なのだから。