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俗に、規格外って言われるのは悪いこと!?

俗に言われる規格外てなに!?

世はグローバル、多様性と言葉を使いいかにも個の自由を認める言葉の反乱!

が、しかし身近に目を向ければ社内の評価では「協調性が無い」「独断的」といわれる毎日
これって規格外なんですか?
そもそも規格は何のためにあるんだろう・・・

そこで今日はこれにまつわる面白いお話しをしましょう。

私たちのよく知る古典力学では、実在は私たちが認識するしないにかかわらず客観的に存在するものと考えられています。

アインシュタインが残した言葉でもある「月は私たちが見ていなくても存在する」という考えす。

しかし、量子力学では実在は私たちの観測による投影なのではないかという考えを持っていす。
要は「月は私たちが見ている時にそこにある。
しかし、私たちが見ていない時はどこにいるか分からない」と考えるのです。

これが言わば規格外の思考では無いでしょうか・・・

元来、規格とは「ルール」の意味や「概念」で使われている言葉です。

つまり、月は何千年、いや何十万年前から有るという思考の「ルール」や「概念」です。

普通に考えたら頭がもげそうですね(笑)

でも頭がもげそうになるこの曖昧さこそが、“目に見えないミクロの世界”の性質でもあるのです。

「で、月はそこにあるの?ないの?」と白黒つけたくもなる方もいるでしょう。
それに対し、「そこにあるかもしれないし、ないかもしれない。そのどちらでもある」
というのが量子力学の考え方です。

どちらでもある、というのは、複数の状態が同時にあるということです。
月が同じ位置にあるか、別の位置にあるかを考えるとき普通なら“そのうちのどちらか”と考えますが、

同じ位置にある状態と別の位置にある状態が同時に“ある”んです。
このことを、「重ね合わせ」といいます。


イメージで言えば波の状態。

どこにも落ち着かず可能性が波のように漂っている状態です。
この重ね合わせの状態からどれか1つの状態に収まるのが粒化です。


波の性質から粒子の性質へ変わるということです。

では何をしたら粒子の性質が現れるのかというと「観測」ではないかと考えられています。
そして「観測によって重ね合わせの状態から1つの状態に収縮すると考えられているのが「コペンハーゲン解釈」です。
この見方では世界はただ一つに落ち着くことになります。

それに対し、
「観測により状態が1つに収縮するのではなく世界は分岐して並行世界が出現する」と考えるのが「多世界解釈」です。
この見方の場合、観測者は自分のいる世界しか知り得ないため世界は1つのように見えるのですが複数の世界が展開しています。

さて、これらの解釈(世界は1つか、もしくは並行しているのか)のどちらが正しいのか、
またはどちらも正しくないのか、全く別の法則があるのかは未解明ですが「観測」は何か大きな鍵を握っているようです。

ただ、この観測についても人が観測したから粒子が現れたのか粒子がそこに現れたから人が観測したにすぎないのかも分からないところです。


仮に粒子が現れたから観測できるのだとしても誰もがその粒子の存在を脳で認識するとも限りません。

脳で認識するためには見る必要がありますが目で見るには物質に光を当ててその反射で初めて見ることができます。
つまり光を当てないと見ることができないのですがこの光が私は意識ではないかと思っています。

あなたが光(意識)を当てて観ようとしない限り観ることはできないんです。
つまり、粒子が現れたとしても、そこには何もないのと同じことです。

そしてこれは「幸せになりたい」と思っている人にほど当てはまる現象でもあります。
「幸せ」が目の前にあったとしても観ようとしていないからそこに「幸せ」に思えるものは何もない。


反面、「幸せになりたい」と思う時は「今は幸せじゃない」という意識で観ているから「今は幸せじゃない」というものはたくさん見えるんです。

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こうして考えてみると、「引き寄せの法則」と呼ばれるものは何か特別な現象を創り出し、
手元に引き寄せてくるスキルのように思われがちですが、実は「すでにあるものの中から観たいものをちゃんと観られるか」
というシンプルな法則なのかもしれませんね。

つまりは「規格」と言われるモノは人の「概念」や思考」で作られているモノと癒えます。

最後に規格外とはそれぞれの「思考」の概念で作られるモノと言えます。

結果的には「規格外」とは世の中の全てが規格外なんです(笑)

決して良いとか悪いではないと思っていれば人生は楽しいですよ。