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LIFE ESSay 『わかりあえなくても、隣にいたい』APR 18.2025-Mor.Friday

「この人とは、一生わかりあえないかもしれないな」 そう思ったことがある。

でも、同時にこうも思った。 「それでも、隣には
いてほしい」

わかりあえること。 共感できること。 似ていること。 それらが全ての関係を築くうえで大切だと思っていたから。

けれど人生のどこかで、 「違ってもいいんだ」と思えるようになる瞬間がくる。



母と私は、本当に正反対の人間だった。 私は静かに過ごしたいタイプで、母は話し続けていたいタイプ。 私は深夜に本を読みたいけれど、母は早寝早起き。

一緒に暮らしていた頃は、衝突してばかりだった。 「なんでわかってくれないの」 「どうしてそんな言い方するの」 そんなことを何度も言い合ってばかり。

だけどある日、実家に帰ったときに、 母が何も言わずに私の好きな紅茶をいれてくれた。

ふたりとも黙ったまま、ただお茶を飲んだ。 その沈黙が、どこか心地よかった。

わかりあえなくても、 それでも一緒にいたいと思う行為そのものが、 愛情なのかなと気づいた。



恋人、友人、仕事仲間。 どんな関係でも、「完全にわかりあえる」は幻想であり、あり得ない話かもしれない。

言葉で表現しきれない感情や、育ってきた背景、価値観の違い。 そういうものが、私たちをときに遠ざける。

でも、だからこそ、 それでも一緒にいたいと思う気持ちは、 もっとも“素直な”気持ちなのかもしれない。



「分かりあえないからダメなんじゃなくて、
分かりあえなくても離れたくない、それが大事なんだ」と 気づいたとき、 人との距離感が、すこし柔軟に近づいた。



沈黙のまま隣にいること。 同じ空を見ながら、違うことを思っていること。

それを寂しいと感じる日もあれば、 心地よいと思える日もある。

だから私は、今日もちゃんと隣にいる。 たとえ、何も言はなくても。 たとえ、わかりあえなくても………